「松本さんっ!」
カタカタと音を立てるトランクケースを片手に、わたしは大学の裏手にある川の堤防を駆け上がる。
わたしの声に、視線の先にある影が小さく片手をあげた。
「ごめんなさいっ。課題を提出してたら遅くなっちゃって……待たせちゃいましたか?」
息を切らしてそう言ったわたしに、穏やかな声が降ってくる。
「いや。俺も今来たばかりだから。それより……走って来てくれたんだな」
少し照れくさそうに頬を染めながら、松本さんは優しく微笑みを浮かべる。
その笑顔に自然と顔がほころぶのを感じながら、わたしは彼に促され、芝生の上に並んで腰を下ろした。
「でも、どうしてデッサンに誘ってくれたんですか?」
トランクケースを開けて、スケッチブックとコンテを出しながら、わたしは尋ねた。
一昨日、彼とランチを一緒にした時に、デッサンをしに行かないかと誘われたのだ。
「ああ……いや……」
何となく歯切れの悪い曖昧な返事を不思議に思いながらも、やがて意識は目の前に広がる景色とスケッチブックに奪われていくのだった。
「……出来た」
緩やかに流れる川のせせらぎと。
頬を撫でる柔らかい風と。
西に傾いたオレンジ色の太陽の光と。
黙々とコンテを走らせるふたりの間に会話はなかったけれど。
同じ景色を見て、同じ時間を過ごす。
その間に流れる空気はとても優しかった。
「あ……」
ふと視線を彼の方へと向けると、その眼鏡の奥の瞳がふわりと細められた。
彼の手にある、スケッチブックに描かれたもの。
「君を……一度、描いてみたかったんだ」
それは、デッサンをするわたしの横顔だった。
「四葉……」
彼が口にしたわたしの名前が、風に乗ってわたしの耳へと届く前に、伸びて来た腕に抱き寄せられる。
夕陽に照らし出されたふたつの影が、ゆっくりと重なっていく。
サアッと吹き抜けた風が、膝の上のスケッチブックをパラパラとめくって行った。
――End.