ピチチチチ…。
甘い草花の香りがほのかに風にそよぎ。
降り注ぐ陽の光が、春の訪れを告げる、3月の下旬。
やわらかな朝に響く小鳥の鳴き声を聞きながら、わたしは家を後にした。
「皐月さん!」
「おはようございます、詩季さん」
家の前に停まったリムジンから降りて来た皐月さんが、いつもの笑顔で迎えてくれる。
「今日のワンピースもとても素敵ですね。まるで春の妖精のようです」
さらっとそんな台詞を口にしてしまう皐月さんに、また少し照れながら。
「ふふ…暖かくなって来たので、新調しちゃいました。それに…こうして朝から皐月さんと過ごせるなんて、久しぶりだったので…」
そう答えたわたしの腰を、皐月さんが優しく引き寄せた。
「皐月さん…?」
ふわりと頬に触れた手が、わたしを上向かせて。
「…綺麗な詩季を見ていると…他の男に見せつけたくなるな…」
スッと近づけられた瞳が一瞬。
ふたりの時にしか見せないそれに変わった。
「さ、皐月さんっ!」
ボッと頬が熱くなるのを感じていると。
皐月さんはクスリと笑って。
またいつもの微笑みに戻ると、流れるような仕草で車のドアを開けた。
「では、参りましょう」
「はい。どこに向かうのか、ワクワクしますね」
そう言ったわたしの右手を取って、彼は少し意地悪っぽく囁いた。
「ふふ。では私はこのままあなたを攫ってしまいましょう。誰も知らない、ふたりだけの世界へと…」
トクンと胸が熱くなったのを感じる。
彼は、秘密をするのが得意だ。
わたしを驚かせることも、喜ばせることも、胸を熱くすることも。
今日も、わたしは行き先を告げられていない。