「ああ、入江先生ではありませんかな」
背後から響く低い貫禄を帯びた声に振り向くと、恰幅の良い白髪の男性がにこやかな笑顔で近づいてくる。
「…先生。この度はお招き頂き、ありがとうございます」
落ち着いた声が隣から聞こえ、彼はすっと頭を下げた。
開院30周年のプレートの掲げられたホール。
天井に吊り下げられた豪華なシャンデリア。
銀食器に盛り付けられた食事。
世田谷に広大な敷地と設備を持つ、恵比寿総合病院と提携を結んでいる病院の記念パーティーの席。
そこにわたしは入江先生と共にやって来ていた。
にこやかに交わされる挨拶の中で、思う。
入江先生に対する信頼の厚さは、恵比寿総合病院の中だけでは納まらない。
瀬崎先生が徹底して現場主義でいられるのも、病院が今の形を保っているのも、彼の人脈や信頼あってこそなのだと。
仕立て屋で作ってもらったものだと言っていた一張羅の背中を、一歩後ろで見守りながらそんなことを考えていると、改まったように低い声がこう言った。
「…そういえば、入江先生は僻地医療に興味がおありだそうですな。先日の論文はなかなかの内容だったと、専らの評判になっているよ」
「先生のお耳にも…?それは、大変光栄です」
少し前に入江先生の発表した、僻地医療に関する論文のことだ。
「しかし、君ほどの腕があれば、大学病院でも開業医でも選択肢は山ほどあるだろう。瀬崎先生と共に将来は恵比寿総合病院を担って行くことも十分に考えられる…僻地医療も大切だが、君自身にとっても、君を必要としている恵比寿総合病院にとってもリスクが大きいんじゃないかね?」
ざわめく会場を抜け出して、中庭に面するテラスへと出ると、わたしはほっと息をついた。
慣れない人ごみの中で、少し酔ってしまったらしい。
すっかり闇に落ちた空を見上げると、小さな星がぽつんと光っている。
「…柊木先生…で、いらっしゃいますか?」
遠慮がちな声がかけられて、顔を上げると若い男性が立っていた。
どこか見覚えのある彼は、以前行われた公開オペで挨拶を交わした医師だ。
「…少し顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
無理に笑みを浮かべたわたしの顔を見て、彼はそう言って顔を覗き込んでくる。
「ええ、大丈夫です。少し、人ごみに酔っただけですから…お気遣いなく」
「いや…それならきちんと休んだ方がよろしいですよ。あちらに休憩室がありますから…ご案内しましょう」
軽く牽制したつもりだったのに、彼は穏やかに微笑んで、わたしの背中に手を回した。
肩と背中の広く開いたドレス。
微かに背中に触れた手に、思わず肩がびくっと動く。
その動揺を悟られないように、自分の腕を抱きしめた時。
「柊木先生」
聞きなれた声が響いて、入江先生が男性の前に立ち塞がっていた。
「こちらにいらっしゃったんですね。お探ししましたよ」
ふっと小さく笑みを浮かべて、入江先生の手が男性から引き離すように、わたしをそっと引き寄せた。
「彼女は私がお連れした女性ですから…失礼」
普段滅多に聞くことのない、相手を威圧するような、少し強い口調。
そのままわたしは入江先生の手に促されて、会場を後にした。
「ごめんなさい…わたしが一人で行動したばかりに…」
ゆっくりと車窓から遠ざかる会場の明かりを背に、わたしは口を開く。
常に穏やかな物腰を崩さない彼が、あんなに強い姿勢を見せたのは珍しかった。
「いえ。あなたを一人にしてしまったのは私だ…すまなかった」
そう言って、入江先生はわたしの頬に手を伸ばした。
「良かった…詩季に何もなくて」
眼鏡の奥の瞳が、切なげに揺れている。
「先生…」
「顔色も、良くなった…心配したんですよ」
間近にある柔らかな眼差しに、胸がきゅっと苦しくなって、わたしはその肩に頭を預けた。
「…先生は、僻地医療を目指しているんですか…?」
優しく肩を包み込んでくれる手の温もりに身をゆだねながら、ふと、会場での会話を思い出して口にする。
いつか、彼の恩師から聞かされた約束が頭を過ぎった。
「…私はプライマリ・ケアを目指しているのですよ」
「プライマリ・ケア…専門を限定せずに、どんな分野も総合的に診られる医師…」
「ええ…僻地医療の問題に関わらず、患者さんのどんな症状にも気づいてあげられる…そんな医師を」
目の前に、彼の育った島の美しい夕陽が蘇った気がする。
医師として、一人の人間として、この人を知れば知るほど、尊敬せずにはいられない。
好きにならずにいられない。
「聡一郎さん…」
わたしを自宅へ送り届けて、帰ろうとする入江先生の背中に、思わず声をかける。
「詩季…まったく、困った人だ…帰れなくなるじゃないですか」
口に出して気持ちを言えるほど、わがままにはなれずに。
そのまま黙って見送れるほど、我慢強くもなくて。
思わず口からこぼれた、彼の名前。
「そんな目で見ないでください…そんなに我慢強い方じゃないんです」
困ったように眉を寄せて、その大きな手がわたしの腕にそっと触れる。
「それとも…誘っているんですか?」
覗き込むようにそう尋ねた彼の首に、わたしは腕を回して自分からキスをした。
「…詩季…」
驚きに僅かに見開かれる目。
それがふっと、穏やかに意地悪く細められる。
「そんなに俺の理性を壊したいなら…責任、取ってもらいますよ」
「…んっ…」
首元に触れた長い指が、プツリと小さな音を立てて、ドレスのボタンを外す。
するりと体の線をなぞるように、降りていく布の感触。
熱い夜を予感して、わたしはこらえきれない息を吐き出した。
―End.
2013.2.3