カラン。
ホワイトボードに帰宅の札を掲げて、時計を見上げると22時だった。
「…ん…」
小さな物音に振り向くと、仮眠室の方から、かすかに人の気配がする。
「一成さん…」
黒い柔らかな髪の下に覗く、穏やかな寝顔。
いつもサイドテーブルにあった薬袋は、もう見当たらない。
物音を立てないようにそっと入って、わたしはテーブルの上のスタンドの明かりを消した。
医局に灯る明かりがかすかに漏れて、暗闇に沈んだ彼の顔をほんのりと映し出す。
ほとんど無意識に、その頬にそっと指先が触れる。
少し前まで、憎しみと復讐と、それでもあなたを愛してしまったことへの苦しみしかなかった。
あなたの苦しみを救ったのがわたしなら。
わたしの苦しみを救ったのも、あなた。
皮肉だけど、出会わずにはいられなかった。
愛さずにはいられなかった。
きっとお母さんが引き合わせてくれたのだと思う。
前を向いて歩いて行きなさい、と。
「一成さん…おやすみなさい」
小さく呼びかけて、頬にそっと唇を押し当てた、その瞬間。
「…あっ…」
突然、強い力で腕を引かれ、唇に柔らかな温もりが触れる。
驚いて目を開いたその至近距離に、彼の顔があった。
「い、一成さん…起きてたんですか?」
慌てて体を離そうとするものの、咄嗟に彼の胸についた左手は掴まれたまま。
ふっと優しく微笑んで、もう一方の手がわたしの頬に伸ばされ、指先がすっとそこを撫でる。
「いや…君のキスで…」
「…ご、ごめんなさい…」
かあっと顔が火照るのが分かるくらい、恥ずかしくて目を合わせられず、横を向く。
「いいんだ。君を、待っていたから…」
「え…?」
掴まれていた手が離されて、彼はゆっくりとベッドに起き上がった。
「今夜…家に来ないか?…明日、休みだろう?」
わたしを見上げる瞳が切なげに揺れて、胸がきゅっと痛くなる。
「最近、ゆっくり2人で過ごす時間もない…もっと近くで君に…詩季に触れたいんだ…」
「わたしも…同じです」
伸ばした手にサラリとした髪が触れて、そのまま彼の頭を抱きしめた。
かすかに、たばこのにおいがする。
「君に触れていると、安心する…」
胸元で、くぐもった声が聞こえる。
ぎゅっと腰を抱き寄せる腕の強さに応えるように、わたしも強く抱きしめ返した。
―End.
2013.1.28