ミュージカルの練習が始まってから、数週が経った頃。 「それじゃ、一磨単独のダンスシーンの練習、始めるぞ」 「はい。よろしくお願いします」 演出家の咲野さんの合図で、室内に音楽が流れ始めた。 その場にいる全員の視線が集まる中、一磨さんは力強くもキレのあるダンスを披露する。 (初めての練習で歌を聞いたときも思ったけど……一磨さんの存在感って、すごいな) 一方、私はと言えば、今もまだ歌やダンスのぎこちなさを指摘されているような状態で……。 (このままじゃダメだ……) 「……オッケー!じゃあ少し休憩にしよう」 「お疲れ様です」 「休憩明けは、○○ちゃんのダンスシーンから再開な」 「は、はいっ」 (わ、ひとりのシーンか……緊張する……) 休憩が始まり、みんなが思い思いの時間を過ごす間、私は鏡の前で振りつけの確認をすることにした。 (でも、なんだろう……うまくやろうと思えば思うほど、ぎこちなくなるんだよなあ……) そのとき、ふと自分のカバンが目に入った。 (……そういえば、一磨さんからもらったキャンディ……なんだかもったいなくて、まだ食べてないけど……) キャンディを差し出したときの一磨さんの笑顔……それを思い返しながら、カバンのところへ向かう。 (……せっかくもらったのに、食べないままの方がもったいない……か) そう考えて、思いきってキャンディを口に入れた。 甘さがゆっくりと広がり、少しずつ緊張がほぐれていく。 (なんだか、少し落ち着いてきたみたい……よし、休憩明けは、とにかく楽しんでやってみよう) その後、再開された練習で、私はずっと笑顔を心がけるようにした。 「……はい、お疲れ!今日はこれで終わりにしよう」 「お疲れ様です」 (ふう……あんなにたくさん踊ったのに、まだ身体が軽い……このあとも少し練習してから帰ろうかな?) 汗をふいていると、そこへ咲野さんが近づいてくる。 「○○ちゃん、今日のダンス、良かったよ。明日もこの調子でよろしく」 「え……あ、ありがとうございます、がんばります!」 (ウソ、褒められちゃった……ダンスで褒めてもらえるの、初めてだ……もしかして、一磨さんがくれたキャンディのおかげ?) 感激しながら咲野さんを見送っていると、入れ替わるように一磨さんがやってきた。 「○○ちゃん、すごいな。咲野さんからあんな風に言ってもらえるなんて」 「あの……きっと、一磨さんのおかげです」 「……俺の?」 「はい。この前、一磨さんがくれたキャンディを休憩中に食べたんです。そしたら、自分でも驚くほど身体が軽くなって……」 私の言葉に、一磨さんが穏やかに微笑む。 「あれは、ただのおまじないだよ。褒められたのは○○ちゃんの実力」 そう言って、私の頭をポンと叩く。 「これからも一緒にがんばろう」 「あ……ありがとうございます……」 (でもやっぱり、私が褒めてもらえるのは一磨さんのおかげだと思うな……) 目の前にある一磨さんの笑顔を見つめるうちに、また身体に力がみなぎるようだった。
その後、帰り支度を終えて出入り口へと向かう途中……。 「……あ」 (しまった、台本を置いてきちゃった) 練習後に置いたままにしていたことを思い出し、急いできびすを返す。 そのままレッスンスタジオの近くまで戻ってくると、扉の窓から中の明かりが漏れていた。 (……あれ、まだ誰か残ってるのかな?) 窓からそっと中をのぞくと、そこには、ひとりで練習を続ける一磨さんの姿があった。 (ウソ……あんなきつい練習のあとなのに、まだ練習を続けてる……) 彼の額からは汗が流れ落ちていて、扉越しでも真剣な空気が伝わってくる。 (なんとなく入りにくい雰囲気だけど……) (でも、台本は持って帰らないと……) そう思い、控えめに扉をノックしてみた。 すると、その音に気づいた一磨さんが動きを止めてこちらを見る。 視線がつながると、一磨さんはすぐにこちらへやってきた。 「○○ちゃん、どうしたの?もう帰ったのかと思ってたよ」 「あ、帰りかけていたんですけど、台本を忘れていたのを思い出して、取りに来たんです」 「台本?……ここに?」 そう言いながら、背後の室内をぐるりと見渡す一磨さん。 「あ、あれか……ごめん、気づかなくて。俺が気づいて届けてあげれば良かったね」 「いえ、そんな……一磨さんは練習をなさってたんですよね。すみません、お邪魔をしてしまって……」 私の言葉に、一磨さんが優しく微笑む。 「邪魔だなんて思わないよ。……それより台本、忘れずに取りに来たんだ。えらいね」 一磨さんは私を室内へ促すように、扉を押さえたまま身体をずらした。 「俺、ちょっと手洗い場に行ってくるから」 「あ、はい」 廊下へと出ていく一磨さんを見送ってから、自分の台本を取りに行く。 (一応、帰る前に挨拶はした方がいいよね) そう思い、手洗い場へ足を向けた。 手洗い場で顔を洗っている一磨さんを見つけ、声をかける。 「一磨さん……」 「……ん?」 私の声に、一磨さんが顔を上げてこちらを振り向いた。 その動作で、髪から水滴が落ちる。 一磨さんは、それを払うかのように大きな手で前髪をかき上げた。 (あ……) 豪快なその仕草が、ふいに心を揺らす。 「台本、取ってきた?」 「あ、は、はい……」 「そっか。これからは忘れないよう気をつけないとね」 そう言って、こぼれ落ちる前髪の向こうで一磨さんが笑った。 (なんで私……こんなドキドキしてるんだろう……) 動揺する私をよそに、一磨さんはそばに置いていたタオルで顔をぬぐう。 「あ、あの……一磨さんって、もしかして毎回こうして自主練習をしているんですか?」 「ん?ああ……ただ、あとに仕事がないときしかできてないけどね」 (一磨さんは、普段の練習だけでもすごく上手なのに……) そんな私の考えを察したのか、一磨さんは小さく苦笑いを浮かべる。 「なんていうか……落ち着かないんだ、練習をしていないと」 「落ち着かない……?」 「ん……Waveでの仕事もそうなんだけど、それなりの形として歌ったり踊ったりできるようになったとしても、これでいいのかとか、もっといい表現があるんじゃないかって思っちゃって」 (より良い表現を見つけるために、ずっと練習を続けてるってこと……?) 一磨さんの謙虚な姿勢に胸を打たれた。 「一磨さんって、すごいですね」 「え?」 「歌も踊りも上手なのに、さらに努力できるなんて……本当に尊敬します」 素直な気持ちを伝えると、一磨さんはどこか困ったように目を伏せる。 (……なんだか微妙な反応……私、何かまずいこと言っちゃったかな……) しかし、一磨さんの表情はすぐに笑みへと変わった。 「そんなに褒めても何も出ないよ?」 「あの、お世辞とかじゃなくて、本当に……」 「ありがとう……でも、俺くらいの人間ならこの世界にはたくさんいるよ。それに、俺はまだまだひよっこだから……その上を行くくらいがんばらないと、努力とは認められないと思うんだ」 一磨さんの言葉を聞くうちに、これまで以上のやる気がこみ上げてきた。 「あの、一磨さん……私もこれから一緒に練習させてもらえませんか?」 そう言うと、一磨さんは少し驚いたように目を見開く。 「一緒にって……俺と?」 「はい。一磨さんの話を聞いていたら、なんだか私も、もっとがんばらないとって思っちゃって」 「○○ちゃんこそ、自主練習なんて必要なさそうなのに。咲野さんにも褒められていたし」 「だから、あれは一磨さんのおかげで……」 (あ……もしかして、ひとりの方が練習に集中できる、とか……?) けれど私がそう尋ねるより先に、一磨さんはうれしそうに笑った。 「俺が一緒でもいいなら、喜んで」 「……いいんですか?」 「ああ。一緒にがんばってくれる存在って、やる気につながるし」 「ありがとうございます!」 「ううん、むしろ俺が○○ちゃんの足を引っ張らないようにしないと」 そう言った一磨さんが「あ」と思い出したようにつぶやいた。 「じゃあ……俺からもひとつ、いいかな?」 「はい……?」 「この練習が始まってからずっと言おうと思っていたんだけど……敬語、使わなくていいよ?」 「え、そんな、だって一磨さんは先輩ですし……」 「そうかもしれないけど、俺たち、恋人なんだから……」 「……えっ?」 思わず動きを止める私を見て、一磨さんはハッと気づいたように訂正する。 「あっ、ご、ごめん……言葉が足りなかった。恋人役、だろう?」 「あ……はい」 (……まあ、そうだろうとは思ったけど……) 一磨さんは一度咳払いをしてから、言葉を続けた。 「できれば、こういうところからお互いの距離を縮められればと思うんだけど……ダメかな?」 (一磨さん……すごく真剣な顔……) まっすぐなまなざしを受け止めていると、役作りの話をしているのだとわかっていても、照れくささを覚えてしまう。 (でも、それだけ舞台に一所懸命取り組んでるってことだよね。私も見習わないと) 私は、いつもより速い鼓動を抑えながらうなずいた。 「じゃあ、これからは……敬語じゃなくても、いい?」 私の言葉に、一磨さんは少し目を見開いてからフワリと微笑む。 「もちろん」 (……あれ?一磨さんの顔、少し赤いような……?) そんな私の思いがわかったのか、一磨さんは視線をそらしながら笑った。 「ハハ……なんか、ちょっと照れくさいな……」 「照れくさい……って、どうして?」 「ああ、いや……これまで○○ちゃんはずっと敬語だったから……。自分から、敬語はやめろとか言ったくせに、何を恥ずかしがってるんだって感じだけど」 そう言って、一磨さんはおどけるように肩をすくめる。 彼のその仕草がめずらしくて、ついクスリと笑ってしまうと、一磨さんも頬をかいて笑った。 (ただ敬語をやめただけなのに、なんだか本当に距離が縮まったみたい) それからの時間は、穏やかな、それでいて少し気恥ずかしいような雰囲気に包まれていた。
先日のやりとり以来、全体練習が終わってからも、一磨さんとふたりで練習をするようになっていた。 ただ、いつものレッスンスタジオは、このあと別の団体が使用するということで、今日は別のスタジオで練習している。 「さっきやった場面で、何度かふらついてたけど……」 「あ、うん……左回りのターンが、どうしてもうまくいかなくて……」 「左回り、か……確か軸足は右だったよね?」 そう言いながら、一磨さんが軽やかにターンを決めてみせる。 (わ、キレイ……身体がまったく揺れてない) 「ターンは、頭からつま先までまっすぐに保つように……糸でつられてるようなイメージで回るのがコツ、かな」 「なるほど」 (身体をまっすぐに保って……) 一磨さんのアドバイスを心の中で繰り返しながら、ターンに挑戦してみるものの……。 「わっ……」 もうすぐ一回転できるというところで、グラリと身体が揺らぐ。 あわてて片足を地面に下ろそうとしたとき、それより先に力強い腕が私を支えてくれた。 「……っと」 端正な顔が間近に迫り、心臓が跳ね上がる。 「大丈夫?」 「あ、う、うん……ありがとう」 あわてて身体を離しながらも、頬がじんわりと熱くなるのを感じる。 (一磨さんはダンスを教えてくれてるだけなのに……もう、何を意識してるんだろう……) そんな私には気づかない様子で、一磨さんが明るく微笑んだ。 「今の、惜しかったね。この調子なら、練習を繰り返すうちにすぐできるようになるよ」 (一磨さんがそう言ってくれると、本当にできるような気がしてくるから不思議だな……) 「うん、がんばる」 大きくうなずいた私の頭を、一磨さんがなでてくれる。 一磨さんの手のひらから力をもらえたのか、それから間もなく私のターンは成功するのだった。
そんな自主練習を続け、ターン以外の身のこなしもどんどん上達していった頃。 とあるシーンの練習後、咲野さんがこう口にした。 「うーん……ここは、もうちょっと情熱的に演じられるといいんだけどなあ」 「はい」 (情熱的、かあ……) 演技中は役の気持ちに集中しようと心がけているのだが、一磨さんと触れ合う場面になるとなぜか恥ずかしさが先に立ってしまう。 (まあ、それはそれで役柄に同調してるってことなのかもしれないけど……) そんな私の考えをよそに、咲野さんがふと思い出したように告げた。 「そうだ。たとえば、ブロードウェイで有名な『アトゥム』というミュージカルを例にとると……」 (……『アトゥム』?) 一磨さんはその作品を知っているのか、小さくうなずいている。 (え、もしかして知らないの、私だけ?) 戸惑いが顔に出てしまっていたのか、咲野さんがふと言葉を止める。 「あれ、○○ちゃんは『アトゥム』……知らないか?」 「えっと……」 (どう答えよう?) 「すみません、あの……勉強不足で……」 「ああ、いいよ。怒っているわけじゃないから。ただ、かなり有名な作品だし、今回の舞台に通じるテーマを持ってるから、見ておいて損はないと思う」 「はい……」 (そうだよね、参考作品を見ることも練習の一環だし……今日の帰り、レンタルショップに寄ってみようかな) ため息とともにそう考える私は、隣から注がれる視線に気づけないでいた。
その日の練習を終え、ひとり帰途につく。 (さっきの『アトゥム』、だっけ……ミュージカルのDVDってレンタルショップとかに置いてあるのかなあ) ぼんやりと考えながら歩いていると、後ろから足音が近づいてきた。 「○○ちゃん」 そう言って隣に並んだのは、一磨さんだ。 「良かった、追いついて」 「一磨さん……どうしたの?」 「いや、ちょっと言い忘れてたことがあって」 「言い忘れてたこと?」 「うん……あの、咲野さんの話に出てきた『アトゥム』のことなんだけど」 たった今、考えていた作品のことを持ち出され、思わず少し身を乗り出してしまう。 「実は俺、『アトゥム』のDVD持ってるんだ」 「えっ?」 「もし良かったら貸すけど……見る時間ありそう?」 「う、うんっ。でも、借りていいの?一磨さんも見ようと思ってたんじゃ……?」 勢い込んで応える私に、一磨さんは笑顔で首を振った。 「俺はもう何度も見てるから。じゃあ明日持ってくるよ」 「本当?ありがとう!実は今日レンタルショップで探そうかと思ってたところなの」 そう言うと、一磨さんがふっと目を細めた。 「うん……なんとなく、そうかなって思ってた」 「え?」 「さっき、咲野さんの話を聞いてるときに、○○ちゃんがすごく真剣、というか……思い詰めたような顔をしていたから」 「あ……そう、だった?」 (ため息をついたの、見られちゃってたのかな) 取りつくろうように笑顔を向けると、一磨さんは少し困ったように笑う。 「咲野さんも言ってたけど、知らないことがいけないってわけじゃないと思うんだ。そのあと、ちゃんと学べばいいだけだし……それに、○○ちゃんががんばってることは、ちゃんとみんなに伝わっていると思うから」 「一磨さん……」 「俺で力になれることがあれば、遠慮なく言って。DVDも貸すし……俺、わりとマニアなんだ」 最後は冗談めかして言った一磨さんに、気持ちが軽くなる。 「うん……あろがとう」 (本当に優しいな……一磨さんが相手役で良かった……) 目の前にある笑顔が心を温かく包み込んでくれるようだ。 次第に縮まっていく私たちの距離。 それにともなって、私の心には小さな想いが芽生え始めていた。
2010/10/16 14:19
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