一磨さんとの誤解が解けてから数日後の土曜日。 そう、今日はふたりで舞台を見に行く日だ。 昨日のうちにお気に入りの洋服も用意しておいたし、いつもより早く起きて、ゆっくり朝ご飯を食べて、完璧に準備をして待ち合わせに向かう……はずだった。 (もうっ、なんでこんな大事な日に限って、服に紅茶なんてこぼしちゃうの……!?) 突然のアクシデントに見舞われた洋服を脱ぎ捨て、急いで洋服を選び直す。 (ど、どれがいいかな……もともと決めてた服のイメージに近いのはこれだけど……ああ、でも、一磨さんはこの色、好きじゃないかも……) どうにか決めた洋服を身につける頃には、家を出ようと思っていた予定時刻を5分過ぎていた。 「ウソッ、もうこんな時間!?」 私はカバンをつかんで部屋を飛び出した。 バタバタとリビングに降りると、のんびりとテレビを見ていたまーくんが振り返る。 「あ、良かったね。服、ちゃんと選べたんだ?」 「な、何よ、ちゃんとって?」 「だってお姉ちゃん、優柔不断だから」 「なっ!?」 「そもそも、紅茶なんてこぼさなければそんなにあわてることもなかったのにさあ……せっかくのデートなんだから、もうちょっとしっかりしなよ」 「そ、そんなこと、私が一番わかってるわよ!もうっ、まーくんのイジワル!……いってきます!」 「いってらっしゃーい」 気のない感じのまーくんに見送られながら玄関へと向かう。 その途中、ふとさっきのまーくんの言葉が頭をよぎった。 (デート、かあ……これが本物のデートならなあ……) 今日の舞台観賞は、あくまでも仕事の一環。 たとえ、一緒に行く相手が私の大好きな人だとしても……だ。 (……まあ、一磨さんとお出かけできるってことには変わりないし……仕事の部分をちゃんとまっとうすれば、少しくらい楽しんでもバチは当たらない、よね?) そう思いながら、待ち合わせ場所である駅前へと走った。
急いだおかげか、待ち合わせ時間には遅れずにすんだ。 しかし、視線の先にはすでに一磨さんが立っていて、手元の文庫本に視線を落としている。 「ごっ、ごめんなさい……待たせちゃって……」 駆け寄って頭を下げると、本から顔を上げた一磨さんが笑った。 「ああ、気にしないで。俺が勝手に早く来ただけだから」 それから、続けて何か言おうとしたときのように息を吸い込む。 「……」 けれど、一磨さんの声は途切れたままだ。 「……一磨さん?」 「あ、いや……じゃあ、行こうか」 「うん……」 (何か言いかけてたと思ったけど……気のせいかな?)
電車に乗り込むと、車内は比較的すいていた。 「あまり混んでないね。良かった」 「そうだね」 一応、座席もあいてはいたが、目立ってはいけないので、車両の隅にふたり並んで立つことにする。 「久しぶりだな、電車に乗るの」 「え、そうなの?」 「ああ。養成所時代は、いつも電車で移動してたけど……最近はマネージャーの車か、タクシーだから」 「そっか……」 (まあ、確かにWaveのメンバーが電車で移動してるなんてことになったら、いつも大パニックになりそう……って、その状況が今ここにあるわけなんだけど……) 特に騒ぎが起きそうな気配もない、穏やかな車内を見渡してから、一磨さんに視線を戻す。 「……ん、何?」 「あ、ううん……なんでも」 (……ていうか、まさか一磨さんが電車に乗ってるなんて、誰も思わないんだろうな) そんな他愛ないことを考えていると、ふとさっき気になったことが頭をよぎった。 (そうだ、さっき駅前で何か言いかけてたみたいだったの……聞いてみようかな?) (なんだか気になるし、聞くだけなら……) 「あの、一磨さん」 「うん?」 「さっき、会ってすぐのとき……何か言いかけてなかった?」 そう尋ねた瞬間、一磨さんの表情が固まった。 「……え?」 (……あ、やっぱり、何か言いかけてたのかも) 「気のせいかなとも思ったんだけど、ずっと気になってて……何を言いかけてたの?」 「あ、いや……」 一磨さんは動揺を隠すように視線を泳がせる。 (もしかして、言いにくいことなのかな……) 「えっと、言いにくいことなら、無理には……) 「え?あ、ああ……別に、そんなに気を遣ってもらうようなことじゃ……」 言いよどむ一磨さんの言葉を待っていると、一磨さんは小さく咳払いをしてから口を開いた。 「いや、その……単に、今日の服が……いいなって」 「……え?」 (今日の服、って……私の?) 思わぬ返事に目をまたたかせていると、一磨さんは照れくさそうに視線を外す。 「そう、思って……言おうと思ったんだけど……なんていうか、月並みだし……女の子相手にもっと気の利いたこと言えないのか、と思ったら……頭が真っ白になったんだ」 「一磨さん……」 「……きっと、翔や京介辺りなら○○ちゃんを褒めたり、喜んでもらえるような言葉を選ぶの、上手だと思うんだけど」 そう言って、一磨さんが頬をかく。 (どうしてそこで、翔くんや京介くんが出てくるんだろう……?) ぼんやりと考える私に、一磨さんがフワッと微笑みを向ける。 「でも、とにかく……似合ってるよ、その服。……すごく可愛い」 「あ……」 無意識に口を開きかけたとき、電車が停まり、どっと人が乗り込んできた。 (わ、すごい人……奥に詰めないと) そう思い、身体をずらす。 しかし予想以上に、次から次へと人が乗り込んできて……。 いつしか、一磨さんと密着してしまうほど車内は混み合った。 (ど、どうしよう……こんな、くっついて……) 間近に触れる体温に戸惑っていると、電車が大きく揺れた。 「きゃっ……」 バランスを崩しかけた私を、力強い腕が支えてくれる。 「……大丈夫?」 「あ……うん」 「こっち……来られる?おいで……位置、替えよう」 一磨さんはそう言って、私の腰を抱き寄せるようにして立ち位置を入れ替えた。 私は電車の壁に寄りかかる体勢になり、そこへ向き合うような形で一磨さんが立つ。 一磨さんは私の両脇に手をついて、身体を支えていた。 (なんか……これって……) まるで抱きしめられているような錯覚に陥り、心拍数が跳ね上がった。 男らしく引き締まった口元が目の前にある。 あわてて視線を落とすものの、そこにはたくましい胸元があって……。 (どんなに仕事だって言い聞かせて、意識しないようにしようと思っても、無理だ……やっぱり私……一磨さんが好き……) それから電車を降りるまで、私は顔を上げることができなかった。
そんな動揺を抱えたまま、本来の目的である『アトゥム』を観賞することになった。 ……とはいえ、舞台自体はとてもすばらしく、見ているうちに物語の世界に没頭していた。 上演が終わると、場内にゆっくりと明るさが戻ってくる。 「本日は、ご来場いただき、誠にありがとうございました。お足もとにお気をつけて……」 場内のアナウンスと人のざわめきが満ちる客席で、私たちはしばらく座ったままでいた。 (私が、っていうより……)隣に座る一磨さんを見やる。 一磨さんは、ステージの方を見つめたままぼんやりとしていた。 「……すごい」 「え?」 「俺が見たときとは……演出が、まったく変わってた」 「……演出が?」 (確かに、DVDで見たのとは少し違うシーンがいくつかあったけど……) 「ああ。俺が初めて見たときは、もっと大げさなくらいセットも立ててあったし、演技も派手だった……けど、今日のはすごくシンプルで、物語のテーマだけを直球で表現していて……」 一磨さんは、興奮を抑えきれないという様子でこぶしを握る。 「同じ作品なのに、演出や演じ方次第でこんなにも変わるんだ……やっぱり、舞台って……すごいな」 そうつぶやく一磨さんの表情は、まるで宝物を見つけた少年のように輝いていた。 (なんだか、可愛い……) 思わずクスリと笑ってしまうと、それに気づいたのか一磨さんが視線を泳がせる。 「あ、と……そ、そろそろ出ようか」 「うん、そうだね」 「……あ、その前にちょっとトイレに寄ってきてもいい?」 「あ、うん。じゃあ中は混んでるから、外で待ってるね」 私は一磨さんと別れて、ひと足先に劇場の外へ出た。
(遅いな、一磨さん……トイレ、混んでるのかな?) ひとりでぼんやりと一磨さんを待っていると、目の前に知らない人が立った。 「ねえねえ、キミ、ひとり?」 「俺ら、一緒に遊んでくれるコ探してるんだけど……どう?おごるよ?」 (うわ、ナンパだ……) 「い、いえ、人を待ってますので……」 「人って友だち?女の子?」 「あの……」 「なら、その子も一緒でいいからさ、ね?」 そう言いながら、相手が私の手をつかんだ。 「な……」 (で、でも下手なことすると、相手を刺激するだけかも……) 「あの、申し訳ないんですけど……本当に……」 「なに、遠慮してんの?かーわいー」 「違、本当に……」 「キミのこと気に入っちゃった。いいじゃん、俺らと一緒に行こうよ」 そう言って、もう一方の男性にも腕をつかまれる。 「や……」 (どうしよう……一磨さん……!) 「おい、何してるんだ」 そこへ割り込んだ低い声に、ホッと息を吐く。 「一磨さん……」 「なんだお前?女の前でいい格好しようってか?」 「なんだっていい。とりあえずその手を離せ」 「チッ、すかしやがって……そういうのが一番むかつくんだよ!」 血の気の多そうな相手が、一磨さんに向けてこぶしを振り上げた。 「あっ……!」 ガツッという鈍い音とともに、一磨さんの頬に当たるこぶし。 「一磨さん……!」 あわてて手を振り払い、一磨さんに駆け寄る。 一磨さんは私を背にかばうように立つと、そっとつぶやいた。 「正体がばれるとまずいから、顔、伏せてて」 「あ……」 「なに、コソコソ話してんだよ?」 「いや……とりあえず、そっちがこうして先に手を出してきたわけだけど……正当防衛って言葉、知ってるか?」 「……は?」 一磨さんは両手の指を軽く鳴らしながら、ふたりをにらみつける。 「もしまだやってくるようなら……もう、容赦するつもり、ないけど」 そう告げる一磨さんの迫力にのまれたように、相手が後ずさった。 「よ、容赦しないって、なんだよ?」 「さあ……それは、次に手を出してくればわかるんじゃないか?」 「ひっ……バ、バカじゃねえの……い、行こうぜ!」 あわてて走り去っていくふたりを見ながら、一磨さんが小さく息を吐き出した。 「……ふう。良かった、ハッタリがきく相手で」 「あ……」 安堵のあまり、へたりこんでしまった私に気づき、一磨さんがスッと私に手を差し伸べてくる。 「大丈夫?……立てる?」 「あ……」 一磨さんの手を取ろうとしたとき、その口の端ににじむ血に気がついた。 「一磨さん……口、切れて……」 「ああ、やっぱり切れてる?痛いなとは思ってたんだけど」 焦る私とは対照的に、いつもと変わらない調子でそう言う一磨さん。 (私をかばったせいで、ケガを……舞台もあるのに……) そんな私の考えを察したのか、一磨さんが苦笑を浮かべる。 「あまり長居して人が集まっても良くないし……行こう」 そう言って、私の手をつかんで引いた。
ふたりでその場を離れ、人気のない公園へとやってくる。 私は、水道で濡らしたハンカチで一磨さんの口元をぬぐった。 「……つっ……!」 「あっ、ごめんなさい……」 あわてて手を引っ込めると、一磨さんが傷をかばうようにしながらも笑ってくれる。 「俺は平気。……それにしても、アイツらに俺の正体、気づかれなくて良かった。こういうときだけは、地味な自分の外見は得だなって思うよ」 おどけるように言う一磨さんに、私は深く頭を下げた。 「ごめんなさい」 「……どうして○○ちゃんが謝るの?」 「あの……ケガをさせちゃったことも、だけど……その……絡まれちゃったのは、私のせいだから……」 そう言うと、頭にコツンと何かが当たる。 「こら」 「……え?」 顔を上げると、一磨さんが軽く握ったこぶしを私の頭に当てていた。 「だから、どうして絡まれたのが○○ちゃんのせい、ってことになるんだ?」 「だって……一磨さんひとりだったら、きっと絡まれることは……」 「ひとりでいても、ふたりでいても、絡まれるときは絡まれると思うけど」 「そ、それは……そうかもしれないけど、でも少なくともさっきみたいな形では……」 「それ以上言うと、怒るよ?」 「え……?」 つむいだ言葉とは裏腹に、一磨さんは穏やかな表情を浮かべている。 「○○ちゃんを助けられて良かった……今、俺が感じてるのは、それだけだ」 「一磨、さ……」 「むしろ、○○ちゃんが困っているとき、そばにいられた自分を誇りに思うよ」 まっすぐにそう告げる優しい笑顔に、ギュッと胸をつかまれた。 「あの……ありがと……」 そう伝えようとしたとき、一磨さんの動きが止まる。 「……あ」 「……一磨さん?」 (どこ見て……) 彼の視線を追って後ろを向くが、特に何もない。 (いったい、どうしたんだろう……) そう思いながら視線を戻そうとしたとき、ふと視界の端に人影がよぎった気がした。 (あれ……あの後ろ姿……?) やわらかそうな栗色の髪に見覚えがあった。 (……翔くん?) しかし、真実を確かめる間もなく、その後ろ姿雑踏へと消えていくのだった。
そうして、自宅前まで送ってもらう頃には、すっかり日が暮れていた。 「今日はどうもありがとう」 「いや……」 そう返事をする一磨さんの表情は、どこか冴えない。 (さっき、翔くんみたいな人を見かけてから……なんだか様子がおかしい……) そのことを尋ねようとした私をさえぎるように、一磨さんが曖昧な笑みを浮かべた。 「じゃあまた明日から、練習がんばろう」 そう言って背を向ける。 「あ……」 「それじゃ、また」 (なんか、あっさり帰っちゃった……今日のこと、デートみたいって意識してたのは、私だけだったのかな……) 彼の背中が闇の中に消えるのを、なすすべなく見送った。 (それより、一磨さん……どうして突然、様子がおかしくなったんだろう……?) 感情を押し隠すような彼の横顔を思い返す私に、静かな冷たい夜風が吹きつけるのだった。
その翌日から、残りの練習日を忙しく過ごし……やがて、一磨さんの口元の傷もすっかり消えた頃。 いよいよ、ミュージカルの上演が始まった。 公演情報が一般公開されてから、スタッフやキャストの豪華さで話題になっていたこともあり、初日から評判は上々のようだ。 「この調子で、みんなにはがんばってほしい。千秋楽まで一丸となって乗り切ろう」 「はい!」 (きっと大変なのはこれからなんだ……しっかりしなきゃ) そう思い、あらためて気合いを入れ直す。 そして、上演開始から数日が経ったある日……。 いつものように無事、公演を終え、劇場の裏口から外へ出る。 (さてと、今日はもう何もないし、まっすぐ帰って……) そんなことを考えていると、後ろから名前を呼ばれた。 「○○ちゃん」 聞き覚えのある声に振り向くと、壁に寄りかかるようにしていた翔くんが身体を起こした。 「翔くん……どうしてここに?」 「ミュージカル、見に来たんだ。誘ってもらってて、今日やっとオフがとれたから」 「あ、オフだったんだ?わざわざありがとう」 (でも、こういうとき、翔くんが黙って来るの、めずらしい気がするけど……) そう考える私を前に、翔くんはどこか顔を曇らせたまま。 「すごく……良かったよ。……妬けるくらい」 「……翔くん?」 思わずそう呼びかけたのと、翔くんが口を開くタイミングが重なった。 「あの……聞きたいことがあるんだけど」 「聞きたいこと?……私に?」 「……ん。電話しようかとも思ったんだけど、どうしても直接聞きたくて……疲れてるとこ悪いんだけど……このあと時間、ある?」 (翔くんの聞きたいことって……?) いつになく真剣な翔くんの横顔を、斜めに差し込む夕陽が照らす。 ふいに吹き抜けた風と翔くんの強いまなざしが、私の胸をざわつかせた。
2010/10/18 17:13
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