ミュージカルの上演を終え、帰宅しようとした私を待っていたのは翔くんだった。 「あの……聞きたいことがあるんだけど」 「聞きたいこと?……私に?」 「……ん。このあと、時間ある?」 そう尋ねてくる翔くんは、いつになく思い詰めた表情をしている。 (こんな風にわざわざ待ってまでする話って……なんだろう?) 戸惑いながらもうなずいた私を見て、翔くんはホッと息を吐き出した。 「ここだと人が来るかも……どっか、人のいないとこ行こう」 「あ、うん……」
劇場の裏手にある人気のない遊歩道まで来たところで、翔くんは足を止めた。 「ここなら、大丈夫かな」 誰にともなくつぶやいた翔くんが、私に向き直る。 「あの……聞きたいことって、何?」 「……うん……ちょっと前の話になっちゃうんだけど……」 翔くんから切り出した内容のはずなのに、彼は何かをためらうように視線を落としている。 私はかすかな胸騒ぎを感じながらも、翔くんの言葉を待った。 やがて、意を決したように翔くんが口を開く。 「先月の真ん中辺りの……土曜のこと……覚えてる?」 「先月の……土曜日?」 (それ、まさか……一磨さんと、舞台を見に行った日……?) 思わず息を飲むと、それに気づいた翔くんが複雑そうに眉を寄せた。 「俺、あの日はたまたま外をうろついてたんだけど……その……○○ちゃん、もしかして……デートしてた?……一磨と」 「あ……」 (あのとき見た人影は……やっぱり、翔くんだったんだ……) 絶句する私の反応をどうとらえたのか、翔くんの顔にわずかな焦りが浮かぶ。 「あのとき、一磨は仕事だって、言って出かけて行ったんだ。でも、○○ちゃんと一緒にいて……どういうこと?アイツ、ウソついたの?」 「あ、ち、違うよ。あれは本当に仕事で……舞台研究のために、演出家の人からチケットを渡されたの。だからふたりで……」 「けど、じゃあそれなら最初から○○ちゃんと一緒に行くって言えばいいのに!」 「……え?」 (どういうこと……?) アイツが仕事で出かけるって言うから、どこ行くんだって……誰と行くんだって、普通に聞いたんだ。けど、何も言わなくて……」 真意がわからない一磨さんの行動に、翔くんは戸惑いの声を響かせる。 「それって……俺に、後ろめたい気持ちがあるから……黙ってたんじゃないかって……」 (後ろめたい……気持ち?) 話を受け止めるのが精いっぱいで、ただ黙って聞いていると、翔くんが私をまっすぐに見つめた。 「一磨は知ってるんだ……俺が、○○ちゃんのこと好きだって」 「……え……」 「俺は、○○ちゃんが好きだ」 繰り返して告げられた言葉に、心臓が強く脈打つ。 「○○ちゃんは?俺のこと、どう思ってる?」 「そ、んな……」 (突然聞かれても……) 「じゃあ……一磨は?」 翔くんの静かな問いかけに、胸がひときわ大きく高鳴った。 「一磨のこと、好きなの?」 「あ……」 (どう、答えよう……?) (……自分の気持ちに、ウソはつけない……) 「好き……だよ」 「……え?」 「私は、一磨さんが……好き」 確かめるように、ひと言ずつ伝えると、翔くんの顔が一瞬、泣きそうにゆがんだ。 (翔、くん……) 翔くんは何かをこらえるようにグッと唇を引き結ぶ。 「ずるいよ……一磨は、ずるい……」 (ずるい、って……) 「俺の方が先に、○○ちゃんのこと……好きになったのに……」 「あ……」 「絶対、俺の方が……○○ちゃんのこと、好きなのに……!」 翔くんが漏らした本音が、私の胸を締めつける。 (でも……私は……) 胸の痛みをこらえながら口を開こうとしたとき……。 「……あ」 ふいに言葉を止めた翔くんの目が、みるみる見開かれていく。 そのまなざしは私を通り越した後方へ注がれていて……。 振り向いた先に立っていたのは、一磨さんだった。 (ウ、ソ……もしかして、聞かれた……?) 「一磨……いつから……?」 翔くんの問いかけに、一磨さんはどこかはぐらかすように目を伏せる。 「俺の方が先に、ってところ……かな」 「あ……」 (じゃあ、私の言ってたことは一応、聞いてない……のかな) 複雑な心境でふたりを見守っていると、翔くんの瞳がキッと鋭いものに変わった。 「一磨……前に言ってくれたよな?俺のこと、応援するって」 (……えっ?) 翔くんの言葉に、心臓が嫌な動悸を打つ。 「○○ちゃんが好きなんだって教えたとき、お前、笑って『応援する』って言ったじゃんか!」 「……ああ」 (応援、って……本当に?それじゃ、一磨さんは……) 「それともあれか、その話は昔のことだから、もう時効だって言いたいのか?」「そんな、つもりは……」 「じゃあ、お前はどうなんだよ?お前は○○ちゃんのこと、どう思ってるんだ!?」 その問いに、一磨さんは完全に口をつぐんでしまった。 それを見て、翔くんの表情がさらに厳しいものになる。 「言っとくけど、お前が○○ちゃんのことをどう思ってようと、遠慮する気なんてないから。俺は○○ちゃんのことが好きだし、○○かhんの隣は誰にもゆずる気なんてない!」 そう言って、翔くんはきびすを返した。 「翔くん……っ」 私の呼びかけに、一瞬だけ足を止めたものの、振り返ることはないまま走り去ってしまう。 そして、この場には一磨さんと私だけが残された。 (聞きたいことは、たくさんあるのに……言葉が出てこない……) 「一磨、さん……」 (そもそも、どうしてここに……?) そんな私の疑問を察したように、一磨さんは小さく笑う。 「忘れ物」 そう言って掲げて見せたのは、私の台本だった。 「あ……」 「前に、これからは忘れないようにって言ったの……忘れた?」 微笑みを浮かべたまま、こちらへやってきた一磨さんが台本を渡してくれる。 「それじゃ、俺は……」 (え……?) 今しがたの翔くんとのやりとりには何も触れないまま去っていこうとする一磨さん。 私は無意識のうちに、彼の服をつかんでいた。 「一磨さん!」 「……何?」 こちらを振り向いたその笑顔があまりにも普段と変わらなさすぎて、私は一瞬、言葉を失う。 「……あ……」 (何か言わなきゃ……でも、なんて……) 「……悪いけど、何もないなら……」 「ま、待って!」 「どうして……引き止めるんだ?」 「どうして、って……」 「翔のことは、こんなに強く引き止めなかったのに……」 「それ……は……」 口ごもる私を見て、一磨さんは小さくため息をついた。 「ごめん……意地悪なこと言って。場所を変えよう」
その後、私たちの足は自然とレッスンスタジオに向かっていた。 (考えてみれば、一磨さんとの思い出は……いつもここから始まってるんだな……) これまで、幾度となく私を助けてくれた一磨さん。 けれど今は、その微笑みの向こうにどんな思いを抱えているのかが見えなくて、どうしようもなく不安になる。 (まるで……前に一度、演技が噛み合わなくなったときみたいな顔……) 言葉を探す私に、一磨さんは静かに切り出した。 「翔に、何か言われた?」 「あ……」 感情の読めない一磨さんの声音に、胸が締めつけられるようになりつつも、さっきのやりとりをかいつまんで話した。 ただ、どうしても……一磨さんに対する私の想いだけは言えなかったのだが……。 私の説明をじっと聞いてくれていた一磨さんが、ふっと目を細めた。 「……昔から変わらないな、アイツは」 「え……?」 「翔とは、養成所からの友だちなんだけど……初めて会ったときから、一磨、一磨ってあとをついてきて……ひと目見たら、もう無視できなくなる……キラキラ輝くような存在感を持ってた。本当に、俺にとっては可愛い弟みたいな存在なんだ」 どこか遠くを見ながら思い出を語る一磨さんは、とても優しげな表情をしている。 「誰に対しても、すごく素直で、正直で……見る人が見れば、ナマイキと思われないこともないんだろうけど……俺はその率直さがすごく……うらやましかった」 そこまで静かに口にした一磨さんが、ふいに私を見た。 「練習……しようか?」 「え……?」 (練習って……) 戸惑う私の手を引いて、一磨さんが想像上の舞台に上がる。 いつもの立ち位置に着くと、私をまっすぐに見据えた。 そして……。 「僕は今までも、これからも……ひとりで生きていくつもりだった」 室内に凛と響く、一磨さんの声。 「そんな僕を変えてくれたのは、ほかでもない……キミだ」 (本当に、練習をするの……?) とりあえず、ここは私のセリフがない場面なので黙って耳を傾ける。 「キミがいなければ、僕は今も前を向いてはいないだろう……だからこそ……」 しかし、それに続くはずのセリフは途切れてしまう。 (……あれ?) 黙り込んでしまった一磨さんは、じっと私を見つめている。 (まさか、セリフを忘れたなんてことはないと思うけど……) すると、一磨さんの声音が少しだけ変わった。 「光に祝福されて踊るキミは……誰よりも美しく、可憐で……僕は目を奪われた……」 それは、いつもの一磨さんを感じさせる、やわらかくて温かい音。 「けれど、キミに心が傾いているという事実に気づくと同時に……僕のもう一方の肩にある、忘れてはならない存在を……あらためて意識させられて……」 言葉を切る一磨さんが、ふと目を伏せる。 「本来、キミと僕は愛し合うことなど許されない関係だ……生まれた場所も、育った環境も違い……ましてや僕は、キミのフィアンセの敵で……そして僕にも、守らなければならないものがたくさんある……僕を育ててくれた母国、ともに歩んできた仲間たち、家族……どれかひとつでも見限るようなことをすれば、それは己の誇りを捨てることにほかならない」 再び私のもとに戻ってくる、一磨さんのまなざし。 「だからこそ、僕は……その、守らなければならないもの……守りたいものに、新たなひとつを加えたいと思う」 一磨さんは、優しい視線を向けたまま、ゆっくりとこちらに近づいてきて……。 「それは……繊細な、キミの心だ」 目の前に、一磨さんが立った。 「……あ……」 揺るぎなく注がれるまなざしに、心が揺さぶられた。 「今こそ、俺がキミに歩み寄るべきだとはわかっている……けれど……今はまだ、できない……」 (今……『俺』って……セリフは、『僕』なのに……) セリフのようにつむがれる言葉は、少しずつ覚えのある流れと異なっていく。 そしてそれが、今の一磨さんの本心であるということにも、私は気づき始めていた。 「キミへの想いが深くなればなるほど……仲間を裏切ることになるんじゃないかと思えば……恐かった。大切な仲間と、キミへの想いを天秤にかけるような真似なんて……できないんだ……どちらも、俺にとっては……かけがえのない存在だから」 一磨さんの顔が、苦しげにしかめられる。 しかし、その苦しみすらも受け入れるように、一磨さんは目を閉じた。 「けれど……いつかは、すべてに決着をつけなきゃならないときが来る……だから……」 ゆっくりと持ち上げられる、一磨さんのまぶた。 「来週……千秋楽が無事に終わるまで、俺に時間をくれないか」 間近につながる視線が、私の心を絡めとる。 「今はどうしても、舞台に集中しなきゃならないから……ひとつ、肩の荷が下りて……ちゃんと全力で向き合えるようになってから……伝えたいんだ」 (伝えるって……それは、一磨さんの気持ち……?) そう尋ねたかったけれど、私は口をつぐんでうなずいた。 それを見た一磨さんが、全身からフッと力を抜くのがわかる。 「……ありがとう」 「ううん……」 (一磨さんが話してくれるって言うなら……今はただ、一磨さんと……一磨さんのことを好きな自分を……信じていよう) その思いを胸につなぎとめるかのように、私は握りしめた手を胸に押し当てた。
そして迎えた最終公演、当日。 ヘアメイクを終え、衣装を身につけた私は、控え室で幕が開くときを待っていた。 準備でいろいろ入り乱れている今の時間帯、控え室には偶然、私しかいない。 机の上に広げられたままの雑誌をなにげなく手に取ると、そこには私たちの舞台に対する記事が掲載されていた。 (『お互いに気持ちを抑えながらも惹かれ合う……主演のふたりが好演する愛の形は、千秋楽でどのように花開くのか』……か) 雑誌を閉じる手が、思わず震えた。 (ついに、千秋楽……今日の舞台が終われば……一磨さんの気持ちを、聞かせてもらえるのかな……) そう思いながら、壁に沿って置かれたお祝いの花々をぼんやりと見つめる。 (……いや、その前に舞台を成功させることを考えなきゃ) 雑念を払うように首を振ったとき、ふいに扉がノックされた。 「あ、はい?」 スタッフが呼びに来たのかと思って立ち上がると、扉が開いた。 そこに立っていたのは……。 「ここにいたんだ」 「一磨さん……」 中に入った一磨さんが、ゆっくりと扉を閉める。 そのまま静かに歩み寄って来た。 「……いよいよだね」 すると、一磨さんが何かに気づいたように、ゆっくりと私の手を取った。 彼の手の中でかすかに震える私の指先。 「……緊張してる?」 「あ……」 「ごめん、緊張をほぐす飴は……今は持ってないけど……」 そう言いながら、ギュッと私の指を握る。 「俺の力が、少しでも伝われば……」 冷たかった指先が、一磨さんの体温を受けて熱くなってくる。 (一磨さん……) そのとき、一磨さんがハッと目を見開いた。 「危ない!」 (えっ?) 勢い良く伸ばされた一磨さんの腕が、私の身体を抱え込むようにする。 一磨さんのたくましい身体に包み込まれると同時に、耳障りな音が響き渡った。 一瞬遅れて、一磨さんの肩越しに降り注いでくる花。 (これ、って……) 今、私の視界に入っているのは、足場が悪くこちらに倒れかかってきたらしい大きなスタンドと、そこからこぼれたお祝いの花。 そして、一磨さんの胸元だ。 「一磨、さん……?」 ぼうぜんとしたまま呼びかけると、わずかに身体を離した一磨さんが微笑んだ。 「……大丈夫?」 「私は、平気……それより……一磨さん……」 続けて呼びかけた瞬間、一磨さんの顔がゆがんだ。 「う……っ!」 「か、一磨さん!?」 肩の辺りをかばうようにする一磨さんの仕草で気づく。 (倒れてきたスタンドが……ぶつかって……) しん……と静まり返る室内で、頭が真っ白になった。 「だ、誰か、人を……!」 あわてて立ち上がりかけた私を、一磨さんが引き止める。 「ダメだ……こんなこと、ばれたら……最悪、幕が開かなくなる……」 「そんな……でも……!」 「いいから」 (私、どうすればいいの……?) (このままでいることなんてできない……でも……) 目の前にある一磨さんの瞳には、切実な光が宿っている。 (このままで、いた方がいい?だけど、じゃあ一磨さんの身体は……) 迷う私を、一磨さんがそっと抱き寄せた。 背中に回される片腕に、胸が締めつけられる。 「……大丈夫」 「一磨、さ……」 「俺は……大丈夫だから」 その言葉とともに、優しく背中をなでられる。 そこへ、廊下からスタッフの声が届いた。 「そろそろスタンバイお願いしまーす!」 「はい!」 返事をして立ち上がった一磨さんが、そっと私の頭をなでた。 「この舞台は、必ず成功させてみせる。俺を……信じて」 そう言って、一磨さんは力強い笑みを見せるのだった。
それから間もなく、舞台は幕を開けた。 私の心配など吹き飛ばすかのように、一磨さんは今までで最高のパフォーマンスを見せる。 誰もが見とれるようなその演技で、実は彼の身体が悲鳴をあげているなんて気づく人はいないだろう。 その事実は、私だけが知っている。 (だからこそ、私も……精いっぱいの演技で応えなきゃ) その一念で、舞台はフィナーレにさしかかった。 私を優しく見つめる一磨さんの声が、静かな会場に響き渡る。 「今、僕のすべてをかけて誓う……キミを……愛してる」 「私も……あなたを……」 スポットライトの中で、私たちはただ強く抱きしめ合った。 千秋楽の今日……この舞台は、間違いなく最高のできばえと言えた。 幕が下り、無事にカーテンコールまで終えた私たちは舞台袖へと戻ってくる。 そうなると、もういてもたってもいられなくて一磨さんに駆け寄った。 「一磨さん……」 その瞬間。 まるでスローモーションのように、一磨さんの身体が崩れ落ちていくのが見える。 (……あ……) 「一磨さん……!」 私の呼びかけに応えるかのように、一磨さんの手がこちらに伸ばされる。 「○○……ちゃ……」 彼はギュッと私の衣装を握りしめると、一瞬だけ微笑んだ。 いつも私の不安を包んでくれる微笑は、このときだけ、はかなく力を失うのだった。
2010/10/19 16:12
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