頬杖をつきすぎて左肘がなくなりそうだ。対策として右肘にシフトしてみるがどうにもしっくりこない。やはり頬杖には左腕が適役なのであろうか。いやむしろ右腕は頬杖をするのにまだ未熟であるとか…?
私はため息をついた。
青少年の悩みは尽きない。それはどの時代どの場所どの季節どの刻であれ普遍的に存在するひとつの原則である。しかし私はれっきとした社会人であり二十をこえており、つまり社会的にも法的にも、まあ理想的にも十分に大人なのである。では何なんだこのていたらくは!――私は永遠の十七歳なんて語るつもりは毛頭ない。しかし現実はまったく意に反するもので、例えば窓ガラスの向こう側でふらふら遊んでいるオツムスッカラカンの若者(ふっきれている!)なんかよりよっぽど悩ましい若者の姿を体現しているのではないか?いやはや恥ずかしい限りだ。そして左腕を痛めかける始末など、どうにも泣けてくる。

では窓ガラスのこちら側は一体どんな景色であるか?

――海辺を一望できるということ以外にうまくメリットを見つけられないカフェの店内。は、一日中煙草の煙がうようよしている。煙が雲になって雨でも降ってくるのではないかというレベルだ。これはフォローのしようがない、酷い。その雲を浮かべる親玉はなんとカフェの店主のオッサンであり、まあ、私もヘビースモーカー故、雲製造のナンバーツーである。天井で小さな換気扇が回っているが、ほんとうに、申し訳程度。時々雲からちょいと顔を覗かせる感じは見ていて哀れに思う。そして勿論すべてがヤニに塗れている。
私がそんな残念なカフェに来たのは今回が初めてではない。最近はどこに行っても禁煙の看板がこちらを睨みつけてくるから、仕方なく探したらこうなったのだ。回りにも私と同じような境遇であろう客がぽつぽつ。皆、喜怒哀楽を海に捨ててきたような顔をしていたが、私もその一人である。

それにしても海の連中は楽しげに見える。ガラス越しに喧騒が寄せては返し、寄せては返しした。煙とヤニで若干見えにくい窓ガラスを紙ナプキン(これも黄ばんでいる)で拭いてみた。途端にクリアになった向こう側の世界に眩しさから目を細めた。他人と比べることは悩みを増やすことである。分かっているはずなのに比べたがるのが私だった。


「海かあ」

海は昔からなんとなく惹かれるものがあった。幼い頃から何かあるごとに海へ行ってそこら辺をぶらぶらと歩いた。それは友人や恋人を伴う場合もあるし伴わない場合もあった。そこで私はいつも、心の奥底の誰かと対話していた。出してくれ、出してくれと願う誰かと。それが誰なのか、特に疑問に思うことはなかった。

――そうだ。海を題材に書いたらどうだろう。いいアイディアじゃないか。何で今まで書こうと思わなかったんだろう。馬鹿みたいだ。

私は小説家である。高校ニ年のときに短編が出版社の優秀賞に選ばれて、それからずっと小説を書いている。あれから五年経った。そういえば五年の間、大好きだった海を散歩したことはなかったのではないか?そしてあの、知らない誰かと会話することもなかったのでは、ないか?

思い立ったが吉日、私は立ち上がると会計をしようと親玉(オッサン)の方を向いた。

その時私は深海の底へ沈んだような静けさを感じた。

オッサンのキッチンのテーブルには人の顔くらいの写真立てがありそこにはある青年の写真が挟まっていた。私はその青年の名前を知っている。浅く呼吸すると声を搾り出した。
「サンジ」
オッサンはこちらを向くとゆったりと笑った。
「知り合いか?俺の父さんだ」
オッサンの声は、私がむかし話した心の中の人に似ていた。
「なぜか知ってるの。海に行くとね、この人、サンジと話ができるのよ」
私はその写真に近づいた。ああ、やっぱりこの人だ。
「知ってるかね。君は、生まれ変わる前の記憶がある人間なのかもしれん」
立っているからか、煙が目に染みる。
「まるで小説みたいな話」
オッサンはヤニだらけの歯を見せて笑った。
「小説家がそんなこと言っていいんかい。フィクションは想像であるからフィクションなんだろう。夢を持ちたまえよ、君」
なんと、オッサンは私が小説家であることを知っていたらしい。

私は店を出ると、軽い足どりで砂浜を海岸まで歩いた。今日はなんだかいい話が書けそうだ。

『夢があるから悩むんだろう。それなら若者のままでいいんじゃないかい?』



オーシャンブルー


20110822
庭咲日名子