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「とてもどうでもよくてありきたりな話だとすれば、…そうだな、おれの誕生日は一昨日だったんです」
まるで興味の無い流行りの映画の話でもするような口調で、彼はそう言った。一昨日というのは私が浴槽で助けられた日だ。考えれば考えるほど申し訳ないというか、タイミングが悪いというか、なんというか絶対に忘れない日になると思う。
「学校の奴らが誕生会するっていうからあの日は早く帰っちゃたんです。正直死にかけてる人間にお粥と林檎だけ与えて放っておいたことがすごく気がかりでしたね、ほんとに」
「悪いことしたわ」
「いいえ。困ってる女性を無視するのはおれの信念に反します」
そう言って笑った彼の目線は僅かに私の左手首を向いていた。包帯はまだ外れない。当たり前だ。
「そして今日は午後から学校です」
「割と近い話ね、それ」
痛くない右腕で頬杖をついた。頬はまだ冬の寒さを残してひんやりとする。
「おれに遠い話なんてないですから」
その時の彼は笑ってこそいたが、心の奥はびっくりするほど冷えきっていて、思わずその心を取り出してあたためてやらないといけない衝動さえ湧いた。あの日私を助けたのは、どうやら親切心だけの行動ではないようだった。私はソファから立ち上がった。
「…どうしました?」
向かいのソファに腰掛けていた彼が私を見上げて言った。私は短く息をする。
「私たちお互いにいい人ぶり過ぎてるわ。いや…、いい人であることが私たちの本来の姿であるのかもしれないけれど。でも、なんかこれじゃ、床に書いた小さな円の中でくるくる回ってるのと同じことになる。

ここが本気で墓場になりそうな気がするの」

あまりにも淡々とまくしたてたものだから、自分でもぎょっとした。しかし彼は「墓場か」と呟いただけで何の答えも示さなかった。墓場か。
「おれにはもう遠い話は出来ない。なにしろ話すことが無い。残念。だから次はあなたの遠い話をしてください」
彼は本当に残念そうな顔をして、それから私の方を向いて微笑んだ。
反論する理由なんて無かった。そして私にあるひとつの解答が浮かび上がった。それというのは、きっと彼の敷いたレールがほぼ脱線することなく、着実に進行し続けているということ。加えてそのレール通りに進めば、私たちはこの円を抜け出すことが出来るような気さえした。
「分かったわ」
私はソファに座り直した。思考するように首を右に傾けた後、口を小さく開いた。喉が潤っていないわけではないのに、妙に口の中がかさかさした。
「この前友達がみんな死んじゃったっていったでしょう」
「言いましたね」
「あれマジよ」
彼のクッキーをかじるパリ、という音がやけに響いた。その音はどこか遠くでこだまして、自分の脳内へ溶けていった。
「私の友達はみんな死んじゃったわ。どこかのパーティだったかしら、主催が有名なお金持ちで。私も昔はそういう部類の人間だったから、そこへ行ったわけだけれど」
話せば話すほど記憶は色鮮やかにこちらへ戻ってくる。何処まで続いているのか分からない螺旋階段や、見上げても見上げても眩しすぎて慣れない照明、ウエストを絞ったドレスや、高いヒールの靴。今目の前にあるのは左腕の包帯だけだ。
「理由は忘れちゃったけれど、パーティーもそろそろ終わるような夜中、集団になった男達が入ってきて、あっという間に私たち拘束されたの。まあ、あとはいろいろ」
それで助かったのは大人と、まだ20だった私だけ。まだ一年も経っていないけど、もうずっと前の話のような気がする。
「それで冗談なんてはぐらかしてたんですね」
しばらくの沈黙の後、彼は詰まっていた息を吐き出すようにそう言った。クッキーはまだ半分以上残っている。そして紅茶を一口すすってから、思い出したかのように「おれの友達も、多分死にました」とだけ、言った。俯いたその表情を伺い知る術は無い。




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