浴槽にたっぷりと湯をはった。
昔、お風呂に毎日きちんと入る人に悪い人は居ないと、祖母が言っていたのを思い出した。確かに、そうかもしれない。悪い人間は悠長に、温かい湯の中に身を沈めたりしないのだろう。私はその中で膝を折った。
死ぬなぁ。
既に酸欠で回らなくなった頭が、色彩判断すら鈍らせている。まるで色褪せた写真みたいな景色だった。もうもうとした湯気の中で血に染まった浴槽に身を沈めて落ちていく私、死に落ちていく私。ああなんで電気を付けっぱなしにしてしまったんだろう。死ぬ人間に光なんて要らない、特に私みたいな自殺者には。
お腹を切れなかったのは自分でも愚かだったと思う。だって、どうせ死んでしまうのに。
死んでしまうのに、どこかでその産声に助けられるのを待っていたのかもしれない。

「ああ、もう、なんてことしてるんですか」
その聞き慣れない声で頭の後ろのほうが僅かに覚醒した。だめだな、私、まだ生きてるんだ。
そこで私の意識の線はちぎれた。




左のほうが痛くないような気がしたのだ。“どうせ死ぬなら痛くない左のほうがいい”。私は無意識にそんなことを口走っていたという。
「驚きましたよ、早朝から人が血まみれで浴槽に浸かってるんですから」
小ぶりの林檎の皮をするすると剥きながら青年はそういった。林檎なんて何年ぶりに食べるだろう、と思ったところで私ははっとして左手首を見た。綺麗に包帯が巻かれている。少しきつめだと無駄なことも考えてみたりした。包帯の白を飽きるまで見つめたところで、また彼に視線を移した。
要するに自殺は失敗に終わったのだ。
殺したはずの身体がまだ生きているとは奇妙なものだ。どうも思考が追いつかない。死ぬ気も僅かながら削がれていた。まずは目の前に差し出されたお粥でも食べるとしよう、なかなか前向きな自殺者だと自賛しながら身体を起こした。
「カフェのモーニングにでも出てきそうなお粥ね」
「そりゃどうも」
褒められ慣れている、そう言いたげな彼の声にはあまり注意を向けずに一口、それを運んだ。血が足りないせいだろうか、それとも日々の栄養失調がたたっているのか、あまりにも味気ないお粥は目の前の現実にも似ていた。それでも何年ぶりか分からないお粥というメニューに少しだけ興奮していて、私はそれを半分食べた。
林檎もお皿に載せた青年は、テーブルと呼ぶには小さすぎるその台に、皿を載せてから控えめな声で言った。
「なぁ、あんた」
「…」
「そこのおねーさん」
「…?」
「もしかして拒食?」
「そうかもね」
半分食べただけでも褒めて欲しかった。吐くと言うことは滅多にないが、もともと食事は摂らない主義なのだ。目の前の青年はちょっと困ったように頭をかいた。
「じゃあいいです、とりあえず食べれる分だけ食べてください。そんで、鉄剤と必須アミノ酸くらいはサプリでいいので摂ってください。ほんとは病院連れてこうかと思ったんですけど、もう死ぬ気もなさそうだし…」
頭がぐらつかない程度に頷いた。
「仕事は?」
目を閉じたまま首を横に振った。
「分かりました。誰かおれ以外に頼れる友人とかいませんか?」
喋ろうと思って開いた口は、金魚みたいにだらしなく口をぱくぱくさせたままだった。仕方なくもう一度首を横に振った。
「じゃあ明日も様子見に来ます。いいですか?」
「ええ」
「…よかった」
青年は心底安心したような様子で残ったお粥を自分の口へ入れ、林檎用のフォークを私に渡すとそのまま家を出て行った。
まるで初めて会った気がしなかった。私はもう一度左の手首を見て、「ああやっぱり死んでいないんだ」とその生を実感した。そして彼が出て行った扉を、飽きることなく見つめていた。


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