やはり、と言うべきなのだろうか。結果は陰性だった。検査薬の反応も極薄い程度の反応しか示していなかったので心配する必要は無いと言う。心臓にまとわりついた網が解けていくように私の心は軽くなっていった。痩せ過ぎですね、きちんと栄養をとらないと本当に妊娠したとき云々としばらく説教を食らった後、私は大丈夫です、最近調理師の友人が出来たのでと答えた。医師も何を思ったのか少しだけ微笑んだ。必死に隠した左手首は、果たして気づかれなかったのだろうか。自分で隠したくせに、気づいて欲しかったと思う感情がふと頭の上を通り過ぎていった。
会計を終えると、病院の前で煙草をくわえたまま本を読んでいた彼に小走りで近寄っていく。左半身はまだずきずきと痛みを孕んだままだったが、歩いても走ってもそれは同等の痛みのような気がした。
「大丈夫だったでしょう」
彼はいくらか打ち解けたような口調でなげかけてから、座っていた喫煙スペースの椅子から立ち上がった。彼が煙草を吸っている場面を見るのはこれが最初だ。彼はその長くて綺麗な指先で煙草をもみ消すと、本をパタンと閉じてこちらを向いた。何かを哀れんでいることをひた隠しにするような目をしていた。目をそらすのは終りにしよう。
「何から聞いたらいい?」
「そうね、まずは遠い話からしましょう」
遠いとは物理的にも時間的にも言えることだった。近い話なら誰にでも出来る。遠い話というのはそう簡単に浮かんでくるものではない。表面の記憶をひたすらに掘って、その穴が自分をすっぽりと覆い隠してしまうほど深いところで眠っている、話。彼は「そうだな」と内々に呟いて、面白そうに、また愛しそうに、すこし目を閉じた。19歳らしからぬその落ち着いた仕草に、内心笑ってしまったことは秘密にしておこう。本当は私のほうが19歳で、彼が21歳なんじゃないか。そのほうが安定した心地でいられると思う。

帰りのバスに揺られながら、私は隣で窓の外を眺めている男の求めているところについて考えていた。その探求はきっと、何故彼が私を助けたのかという根本的な疑問に帰結する。触れるか触れないかの距離でその口づけを躊躇った、同時に私も同じ躊躇いを孕んで顔を背けかねなかったのだ。唇から言葉は紡げるが、触れたところでお互いの心根まで理解できるとは到底思えない。彼は私のことを知りたいと思うけれど(それは多分私も同じ気持ちでいるのだけれど)、真っ当な方法がまだ分からない。
「明日は」
窓の外を向いたまま彼はいつもと変わらぬ口調で言った。
「明日は朝8時頃行きます。おれが行かないときっと眠ったままでしょう?」
「図星。…あなたはさながら眠り姫を目覚めさせる王子かしら」
言ってから、私はいつまでこの安い妄想に囚われ続けるのだろうと情けなくなった。だから彼は王子でも悪魔でも天使でも死神でも、神でも、なんでもない。理解しない自分を誰かに平手打ち願いたい。
バスを降りて家に戻った後、夕食を作りながら彼は「あの一言はちょっとドキッとした」と笑いながら優しく訴えた。「この調子じゃ2週間なんてかからないうちにおれが耐えられなくなる」この言葉はきっと私に向けたものではなく、自身への戒めとして縛り付けた制御ベルトのようなものだろう。
青年のいる家はまるで母の胎内のように暖かく柔らかく、それでいて確かに包み込んでくれる。私は自分の座っているアイボリーのソファが、次の瞬間彼の存在で満たされていくさまを想像した。そのソファを中心として、この家全体がほんのりと光を帯びる気さえした。
私は彼を信頼しはじめていたし、また彼も私を大切に思いはじめていた。私に限れば、それはきっと砂漠のオアシスのようにやっと見つけた命綱みたいなものだろう。とても深刻な意味で、私は彼がいなければ生きていけなくなったのだ。もしかしたら信頼ではなく依存と表現した方が、正しい。
彼が帰った後、巻き直した包帯を眺めながらもう一度刃を当ててみた。今度は心が痛くなってやめた。そしてその包帯を少し濡らしながらシャワーを浴び、毛布に潜り込む。
明日、何から話そうか。
頭の中から心臓の中、腕の隅々から爪先に至るまで、私は私について遠くから物事を考えようと試みた。掴めたのはあの血だらけの景色だけだった。それより昔の風景を私は思い出したくない。瞼を強く閉じた。
そういえば、あの日から私は浴槽の蓋を開けることが出来ずにいた。今にも顔でも突っ込んで、溺死しかねない。
そうやって、私はいつまでも近くのことばかり頭の中で回して、21年の層をまるっきり無駄にして、目の前の外気に触れる記憶、例えば青年の煙草や綺麗な指先や、片目しか見えないへんな髪型のことや、当てたナイフの刃先だったりするような今思い出したところでどうしようもない情報ばかりがこのベットの上を駆け回って、自分で自分を不快な思いにさせた。そして何の答えも出せぬまま、眠りの底へ落ちていった。




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