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暗い暗い部屋で、私は現実に殴打された。青年の居る私の家はまるで別の世界のようで、すっかり頭から抜け落ちていた現実。うっすらと現れたその色に言葉も出なかったあの瞬間を思い出す。側に誰かがいたなら変わったんだろうか。恋人がいれば変わったんだろうか。そんな人私にはいないしもし、あの人がそうであったとしたら死んだ方がマシだ。
しかし腹部にはなんの異常もない。流れたのかと思えばそれはまた違うように思う。流産は、それはそれは激しい痛みを伴うものだ。幼い頃そんな母親を何人も見てきた。母親がただの女に引きずり下ろされる瞬間だ。
要するに妊娠したかもしれなかった。それが分かったのは自殺を試みたちょうど半日前のことだった。そしてその相手と言えば思い出すだけでもう反吐でも出かねない。
ちょうど本を読もうと思って寝室の本棚に手をかけた時だった。脇の小机にぽつりと置かれたそれに呼吸を押さえつけられた。世界が数秒、止まって耳鳴りがした。この家にもう現実は襲ってこないと思っていたのだ。隣の部屋との壁のしきりが、いやに分厚く感じた。

「私のことひとつ、教えましょうか」
こうしなければ収まらないような気がした。ちょうど学校のテキストか何かを開いて思案顔をしていた彼は、顔を上げると「え」とひとつ小さな疑問をもらした。数瞬後、興味深げな表情をして眼鏡を外した彼が妙に画になっている。
「また嘘じゃないでしょうね」
「さっきのは嘘じゃないの、冗談」
「冗談も嘘も中身は空っぽだ、変わりない」
「さて、どうかしらね」
「…どうでもいいさ、いづれ知ってみせる」
もういっそ誤魔化してしまおうか。意を決して開いた扉だが、彼の顔を見た瞬間に心の中でああしまった、と後悔した。このあやふやな関係には重すぎる。この右手に握った検査結果は私たちの距離にしては近すぎる。しかし彼は私の瞳の変化に気づいて顔色を変えた。
「この2週間で全部知るつもりなんです。遅いも早いもありません。…どうしたんですか」
「…あなたがここに来る前の話」
時計しか掛かっていない真っ白な壁に背中を傾けた。こんなふうにずっとまっさらでありたかったと思う。青年は黙っている。
「私、妊娠、してるかもしれない」
妊娠、という言葉がこの白い部屋を貫いた。細い針が突き抜けていくよう。風は止んでカーテンは大人しかった。彼は少し視線を外してからゆるゆると立ち上がった。
「それは、無いんじゃないかと」
「ない?」
「ええ。だっておれがあなたを助けたとき、お腹ぺったんこでしたし、ていうかむしろ抉れてるように細いじゃないですか。極度の栄養失調に血液の不足、もし居たとしても死んじゃってますよ」
それに生きてる匂いがしない。
そう言うと彼はゆっくりと歩いて私の前に立ち、遠慮も何もなく私の腹部に触れた。彼からふわりと煙草の香りがした。思えば彼がこんなに近くに居るのは初めてかも知れない。彼なりの配慮か、私の拒絶か、少なくとも私は彼と無意識に大きな距離を保っていたことに気がついた。
「おれは専門家でもなんでもないけど、少なくともおれはここに生命を感じない」
「そう」
「でも万が一のこともありますし、病院行きましょう。ここらへんで産婦人科のある病院、知ってますか?」
その問いに私は答えることが出来なかった。ふと力が抜けて、壁にそって重力の向くまま、ずるずると引かれていった。座り込んでしまった私に、ため息もつかずに彼は同じようにしゃがみ込んだ。そして右手で額を押さえ、暫く何かに葛藤した後、ゆっくり壁に手をついた。
「未成年で喫煙しちゃだめよ」
「参ったな。あなたの前では吸わなかったのに」
先程私が刺し貫いた生々しい傷の残る部屋で、もうどうしようもないような気がした。目を閉じた。彼は私の唇に触れる数ミリ手前でしばらく迷った後、結局何もせず立ち上がって電話をかけにいってしまった。
その理由は大体分かる。そもそも私たちは恋人ではないし、名前すら知らない曖昧な繋がりだ。もしかしたら彼には恋人がいるのかもしれない。一歩手前で思いとどまったのもそのせいだろう。なんだかぼんやりとしてそれでいて落ち着かなくて、手持ち無沙汰の子どものように包帯をいじっていた。




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