あっという間に目の前に出されたのは控えめな量のカルボナーラだった。カルボナーラだって何ヶ月ぶりに食べるだろう、しかもこんな美味しそうにつやめくパスタは初めてだ。すべてを机にそろえた青年は満足げにソファへ腰を下ろした。
「食べ物が人の心を緩ませるってマジな話ね、多分」
「おれはそういう人間を何人も見てきましたよ、おれの手によってね」
彼は期待するような目で私を見据えた。上手く答えられないままに私はフォークを手に取った。食事するという行為しかしていないはずなのに、それはまるで高貴な儀式でも執り行っているような感じがした。すべてがうつくしい。
「おいしい」
「喜んで頂けて光栄です」
期待していたのは図らずとも、この言葉だったのかもしれない。その証拠に彼は、こちらがはっとしてしまうくらいに幸せそうな笑みを浮かべた。
多分彼の配慮なのだろう、私の皿に乗ったパスタは彼の半分ほど。しかし私は彼より遅くその皿を空にした。特別理由があったわけではない。彼は私が食べ終えるまで、飽きずに私を眺めていた。
「満足です?」
「ええ、とても」
彼はまるで私の母であるかのように「よかった」と呟いた。そして空の皿を私の分まで下げ、キッチンへ抜けていった。肌寒いはずの風はしかし気持ちのいい風を運んでいた。彼は笑ってばかりいる、私はそんなことをふと思って、それはすべて私が根源であることも思い出し、どうリアクションをとればいいのか今更分からなくなってしまった。
静寂はまだ、居心地が悪い。
しかし私はだんまりを決め込んだ。さっき彼の情報を僅かながら知ってしまったわけだが、きっとその情報がどうであれ私はきっと今の私のように動揺しているのだろう。ぼんやりとつかみ所のなかった人間の、輪郭が判明してくる瞬間の急激な変化に私は着いていくことが出来ない。例えば、こんなふうに優しくしてくれる人間なら尚更に。無償の愛をくれる人間なら、尚更に。
「この家はなんだかヒトの匂いがしない」
誰にともなく彼はぽつりと、そう呟いた。そして今度はこちらを向いて、
「誰も来ないんですね」と言った。
「そうみたいね」
なんだか変なごまかし方をしてしまった。ばつが悪くてふいと目をそらすと、風になびくカーテンがこちらを向いて暴れていた。この家はいつもカーテンを開けない。カーテンも開けられたことに多少うろたえているんだろう。その端に触れれば鬱陶しそうに身をよじった。
「友達はみんな殺されちゃったの」
「嘘」
「嘘じゃないわ。冗談って言って」
「やっぱり嘘じゃないですか」
「そんなふうに考えないと気が狂うわ」
そんなふうにかわしたような答えしか出てこない私も私だ。
彼の名前も知らないくせに、彼の料理は何の疑いもなく平らげている、ほんとうにありえない現実にむしろ冒険心さえ湧いてくるのだ。現に、私はいつまで彼をかわしながら料理を頂こうか、なんて酷なことすら考えていた。人生のベクトルは死に行く向きから、完全に生へと目標を変えていた。
彼も今のところそれで満足らしかった。私のへんな会話ひとつをとっても、適当にというか、適した角度で流していた。そして楽しんですらいた。私はしばらくこのままでいるべきなのだろうか。
「冷蔵庫に2週間分の食材があります」
揃いのティーカップにアールグレイを淹れた青年は、またソファに腰を下ろしながら私の方を見据えた。さて、お遊びもここまでか。
「それまでにゆっくりおれのことを話しましょう。勿論あなたのこともね」
「面白い」
「面白いなんてものじゃないですよ。おれは今すぐにでもあなたのことを知りたいと思うけど、どうやらあなたはそれを望んじゃいないらしい」
「よく分かってるわね」
コックですから、と見当違いの返答をした彼はおもしろそうに目をそらした。どうやら彼は彼なりに計画があるらしい。それが敷いたレール通りに進んでいくか否かというのは、すなわち私の情報開示にかかっているというわけだ。




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