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トントンと規則正しい音の気持ちいい、夕方のことだった。

「いっ…」
小さな声が隣の部屋のキッチンから聞こえてきた。どうやら包丁で手を切ったらしい。彼がそんなミスをするなんて初めてだったので(まるで包丁が自分の手であるかのように扱う人だ)、私は読んでいた本を閉じると一直線に扉を開け、消毒液を探すサンジを見るなりこう言った。
「何かあったの」
「ちょっと切っちゃって」親指の腹を見せてサンジは眉を下げた。
私は彼の優しさから派生する、その日常的なかわし方に少しだけいらいらした。だからって彼を責めたいとかそういうことでもないのだ。私はゆるゆると首を振ると、ため息まじりに呟く。
「分かってるでしょう、私がききたいのはそういうことじゃないわ」
サンジは困ったなあ、という表情をして、表情をしながらもまだ消毒液を探し続けていた。消毒液があるのはその右の棚なのに。そう思うのと同時、私は「あっ」と小さく声を発した。
――ここは私だけの家なんだ。サンジの家じゃない。
私はすぐに右の棚へ手を伸ばすと、消毒液を彼の手へ渡した。サンジは「ありがとう」と微笑むと、椅子に座って消毒を始めた。
「今日は刺身をと思ってたんですけど、怪我しちゃったんで無理ですね。また別の考えますんでちょっと遅くなるかもしれません」
多分この人は私の本当に知りたい核のことなんて一生教えてくれないんだろう。そう思うと悲しいよりも悔しいが感情の波から突出して勢いよく飛沫を上げた。無意識に唇をかんだ。
「…私が続きを作る。サンジは見て指示してくれればいいじゃない」思いもかけない言葉が口をついて出た。お互いにぎょっとして顔を見合わせる。もし、もし私がこの料理をつくることになったら…。私はものすごい速度で未来を期待した。もしかしたら私は生きられるかもしれない。私は、息を吹き返すかもしれない…。私の体じゅうを何か明るい色がひゅっと駆け抜けていった。私は私に期待し、それ以前にサンジを期待した。
けれどサンジは笑いまじりにこう言うのだ。
「いいです無理しなくて。俺のミスですから、俺に任せてください」




その日私はサンジの作った夕食を食べなかった。
サンジは7時半、8時、8時半、そして9時の4回私の部屋をノックし、「ご飯できてますよ」「どうしましたか」「俺なんかしましたか?」なんて一言二言を優しく放って、9時10分になると静かにマンションを出て行った。玄関の扉がバタンと閉じられた瞬間、私はこの1年間流したことのなかった涙をごうごうと流した。
なぜ私は優しくしてくれる人をこんなに傷つけてしまうんだろう?彼はなんにも悪いことなんてしていないのに。全部全部思いやりでしかないのに。涙は拭っても拭っても次々と溢れた。サンジは今日絶対に何かがあった。私が助けなければいけない番だった。私はもっともっと傷つけてしまった。恩を仇で返すとはまさにこのこと。最低だ。私の嗚咽は容赦なく部屋中に響きわたり、満ちた。そして泣きつかれたとき、私はあることを思い出した。
この家はサンジの家ではないけれど、今、このとき、現在進行形で、この空間はサンジと私の空間になりつつあった。…はじめはキッチンだけだった彼の面影は、リビングのソファ、ベランダ、玄関、そしてトイレや洗面所に至るほぼ全てにその存在を示すようになった。私とサンジはもはや他人ではない。何か大きなきっかけがあったわけではないけれど、サンジはもう私と同じ場所で暮らしていくだけの準備期間を終えていた。そして決まった。サンジは扶養者であり、私は「被」扶養者であることが決まった。キッチンとはその立場をはっきりと表す。扶養されるものは、何も生み出さない代わりに何処へも出てゆけない。
それが分かった瞬間、私は生きているのか死んでいるのか分からなくなった。

そして知った。私はなんだかんだ死にかけたり命を棒に振る振りをしたりしながらも結局は自分が誰よりも生きたがっていると言う現実を。
加えて惨いことに、願わくばサンジとともに生きたいと思っている都合のいいエゴイズムさえも悟らざるを得なかった。
それが「彼を愛している」ということだったのだ。


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