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side sanji







彼女は甘ったるい香りがする。俺は専門学校からの帰り、信号待ちをしながらぼんやりとそんなことを考えていた。
彼女のことを思い出す時、俺はいつもその香りを思い出さずにはいられない。砂糖菓子みたいな甘い甘い匂い。俺は目を閉じる。そうすると彼女の手元がふと呼び起こされる。
あの甘い香りはハンドクリームの香りだった。何週間か前に、雑貨屋で俺が買ってやったものだった。彼女はそれがとても気に入ったらしく、毎日のようにつけていた。そしてそれはだんだん、彼女の肌にしみ込んでいった。
まるで生まれる前からその匂いに包まれていたかのようだった。
信号が変わった。バイクがゆっくりと速度を上げていく。
彼女は生きている。俺が“生かしている”のかもしれない。そしてそれは、もしかしたら、自分を生かしていることと同等の行為なのかもしれなかった。
小さな溜息が漏れる。
現実的な話、俺が買ってやる必要性は限りなく無に近い。元病院経営者の娘と専門学生、全財産なんて比べようがない話だった。でも俺も彼女も、そんな数字だけの世界で生きているわけではないのだ。彼女は金で買えないものの存在を知っている。その証拠に、彼女は愛おしそうに彼女の家族の話をする。いつも最終的に、両親の心中でその話は幕を閉じるのだが。

もっと欲しがればいいと思う。遠慮が優しさとは限らない。俺自身モノが全てだとは思っていないが、欲がなければ死ぬだけだと思っている。

…そういえば、俺は昔からあいつには何も買ってやっていなかった。「あいつ」も彼女と同じように、何かを求めたり欲しがったりしない人種だった。いや、求め方を知らなかったのか?
島に着く度にあいつは俺について食料の買い出しに出かけたが、俺が「何か欲しいものはないか」と尋ねても、あいつは首を横に振るだけだった。ゆっくりと、でも、きっぱりと。
あのときあいつは小さく、魔法でもかけるみたいに密やかに、唇を震わせていた。“いらない”、そして噛み締めるようにもう一度、“なんにも、いらない”。
俺はいつもその、発されることのない言葉に胸を締め付けられた。そして今、あいつを守れなかった自分に腹を立てている。


俺は彼女を守ってやりたいと思っている。しかしそれはただの自己満足なのかもしれない。俺は彼女を利用しているだけで結局目の前の彼女を愛せていないのかもしれない。買い与えたモノの先はもしかしたらもういないあいつの影なのかもしれない。全ては推測でしかない、何故だ、俺は俺のことを何一つ分かっちゃいないからだ。最低だ。勝手に助けて勝手に生かして勝手に思い込ませた先が、焦点の合わない疑似恋愛だったなんてこと。

『でも、俺の飯をうまいと言って食ってくれる奴がいる。それだけで俺自身も生かされているんじゃないのか。俺だって半分、いや、ほとんど死にかけていたようなもんじゃないのか。どっちがどっちを助けたかなんて今更答えが出てくるような綺麗なオハナシじゃなかったんだよ。だって俺は、そうだろう、この世界の人間じゃないんだから』……。




「そういえば、体調悪かったっていう彼女さん、元気になりましたか?」
朝、バイト先の後輩が大型電気店の閉店セールのチラシを新聞に挟みながら訊ねてきた。ああ、ついに閉店かとどうでもいいことを考えていた俺は急に我に返る。
「あー、まァ、な」
「朝から看病なんて、相当好きなんすね、彼女のこと」後輩の左人差し指がチラシで何カ所か切れていた。
「…放っとくと死んじまうんだ、あいつ」用心深くチラシを挟み込む。

そうすると、扉の向こうの給湯室でお茶を入れていた所長が、誰に話しかけるでもないようなそぶりで、でも大きな声で、
「娘が言ってたなぁ、なんだったか、あぁ、あれ、『たまごっち』も放っとくと死ぬって、なあ」

後輩が小声で「気にしちゃだめっすよ」と言った。
俺は笑えなかった。なんたって的を射すぎていたのだった。




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