あなたが心底楽しそうにはしゃいでいるところを見たことが無い。そう言えば、「それはお互い様でしょう」と笑いながら返された。それもそうだ。私は妙に納得してしまってそれ以上の追求を避けた。
海辺にはまばらな観光客と、彼らの食事を狙う鳶が居た。ずっと向こうには制服を来た少女が波打ち際で棒立ちしていた。それらを懐かしげに――とでも言った方が正しい響きに聞こえる――ぐるりと見渡して、サンジは頭の後ろに手を回した。
「この世界は色々なことが分かり過ぎてる」
心底悲しそうな声音だった。私は下を向いて、割れてしまった爪を無意味に撫でる。強い風が髪を撫で付けていく。
「…そうね。遠い国で両親が心中したって、翌日にはすぐ知らされるような世の中だもの。もううんざり。彼らだって知られたくないから遠くまで行ったのにね」
ああ愛しいなあ、とぼんやり上の空で考えてみるものの、実際何が愛しいのかなんてまだこの両手に掴むことすら出来やしないのだ。しかし、愛しいという言葉が自分のなかで常に先頭に置かれた感情になったということは、つまりそういうことだった。
「心中…」
まるでその言葉を愛でているみたいな言い方でその2文字はゆっくりと咀嚼されていった。そのわりに彼はずっと上の空だった。
「あるなら連れて行ってよ、サンジ。死のうと生きようと誰にも知られない世界があるなら。ねえ…」
また私は短い同心円の中で足をもつれさせている。そして彼をも引き込んでしまおうとしている。無意識なのだ。そこには罪悪感も恋愛感情も依存心も優越感も劣等感も、ありはしないのだ。同心円の中の私。それはまるで愛の無いプラスティックケースに収まった小さなバービー人形のようだ。
それを手に取る人間に愛があればいいのだが。
「ああ、出来ることなら、連れて行きたいさ。それが出来ないから人間ってのはやきもきするんだ。時にはその世界を地獄や天国に見る人間だっているよ。…でも、死んだら全部おしまいだ」
全部。
いつになく言葉の端をほつれさせたような口調の彼は、軽く首を横に振った。
「生きてるなら、まだ探せますよ。ずっと遠くにあるかもしれない、でも本当はすごく近くにあるのかもしれませんね」
「比喩とかじゃなく?」
「比喩とかじゃなく」
サンジは笑って、なんだか変な会話だ、と呟いた。私も笑った。


昼食を食べながら、展望台からの景色を望みながら、水族館でクラゲを眺めながら、道ばたの猫と戯れながら、彼はぽつぽつと昔話をしてくれた。それは彼自身の昔話なのか、はたまた童話のような夢物語なのかは分からなかったけれど、尋ねようとは思わなかった。それが私と彼の望む距離になる。カウンターテーブルひとつくらいの距離。そのテーブルからは身を乗り出さないと決めていた。
「昔、海賊がたくさん活動してたんです。漁師が魚を捕りに沖へ出るだけで、簡単に遭遇するような多さで。ほとんどはいかにも悪人顔の海賊ばっかりだったんですけど、やけに明るくて無茶ばっかりする少年が船長をやってる、へんな海賊がいたんです」
「船員はどれくらいいたの?」
「数はそう多くないけど、腕の立つやつばかりいました。博識のあるやつも、人を楽しませるやつも。そいつらは皆それぞれの夢の為にひとつの場所へ向かってるんです」
それ以降の話は彼自身が切り出さなかったので結局聞きそびれてしまった。私はその昔話を、絵本のページをひとつ、またひとつと捲るように慈しみ、記憶しようと思った。きっと彼にとってこれは宝物のような話なのだろう。私を外に連れ出してまで語った、宝のような話。でもまだその話には、人ごとのような距離感が息をひそめていた。その距離感は、私に対する距離ではなかった、きっとその話と彼との距離だろうと思う。彼自身が一歩引いたような喋り方をする。まるでそれ以上近づいたら、その宝物がどこかへ消えてしまうのではないかと危惧しているようだった。

私は帰り際、確かめるようにその潮の香りを吸い込んだ。彼から香る、潮の匂いはこれじゃない。本人は気づいていないのだろうか。
彼は朝から晩まで、まるでこの背景にとけ込めていないのだ。
印象派の背景に写実派の肖像画を張り合わせたみたいに、心地悪い感じがする。でもサンジはサンジとしてこの世界に存在しているひとりの人間であるし、その海だって紛うことなくこの海辺に存在して、ずうっと向こうのどこかの海辺とつながっている海なのだ。“おれの友達も、多分、死にました”ああ、まただ。この言葉が私をいつまでも疑問の箱から出してくれない。


「このまま私とサンジをこの世界から切り取って、正しい場所へ戻してくれればいい」
ふと、そう思った。



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