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春休みだという。
専門学校は2年間のうちに様々なことを詰め込むから、休める期間なんてほとんどないという。春休みだって5日間だけだ。5日間しかないんです、と彼は困ったような表情こそあらわしたものの、それは自分が困るというより私の食事管理を徹底的に行える日が少ないことを嘆くように聞こえた。私の思い上がりなんだろうか。心の中でその疑問をころころと転がしていると、バイクから下りたサンジが私の手を取った。見上げれば、彼はいつになく晴れ晴れとしたような表情で片眉を上げた。
「何処へ行くの」
「海です、海に行きましょう」
なんとなくその声が本音からティッシュ一枚分、浮いているような気がした。私は思わず目を逸らして、晴れ渡った青空を仰いだ。
あのとき感じた閉塞感はなんだったんだろう。彼から潮の匂いがしたのは何故だったのだろう。当たり前のようにヘルメットを渡してきた彼には、先日のような違和感を孕むさみしさやかなしさや色々なものの面影など何処にも見当たらなかった。観念して今日は正直にしたがってみる。
“なんで、海なの”
私はこの数十分だけで何回この言葉を飲み込んだだろう。彼の、サンジの明るい表情を今にもぼろぼろと壊してしまいそうで、私はその疑問を口に出来なかった。
だって1時間もかかるのだ、ここから。乗り物酔いは中学生の時に治ったけれど、あの出来事以来久しく乗り物の類にはお世話になっていなかった。しかも、つい1ヶ月ほど前に死にかけている女性を、バイクに1時間も乗せるなんてどうかしてる。なんてことを頭の隅で思ったものの、彼の目を見た瞬間、もうすでに海にわくわくしている自分がいた。

――連れて行かれるだけじゃだめだ。
サンジは私にいろいろなものをくれる。生きること、食べること、笑うこと、外に出ること。それに対してさて、私はなにをあげられたんだろうと思うとどこを向いたらいいのか分からなくなる。何処を目指して歩いていけばいいのか、途端に霧に覆われたように分からなくなってしまう。そして、その霧の中から私を助け出してくれるのも、またサンジなのだ。泣きそうになりながらも、こんなに優しさをくれる彼の前ではどうしても泣いてはいけないような気がしてしまう。私は大人しくヘルメットをかぶった。
「うん、ぴったりだ」
女性もののヘルメットなんだから大体の女性はぴったりだろう。私は彼が満足げにそう言ってきたことに変な違和感を覚えた。でもその小さな違和感さえ、まだ口に出してはいけない、内密な禁忌である、敢えて触れないもののようで仕方ない。それは笑顔の皮膚の下に潜み、ひどくどろどろしているのだ。
かぶったヘルメットはやけにひんやりとしていた。それは私が春の暖かさに火照っていたせいかもしれない。そうかもしれない。そう思っていたい。私はまだ、彼の真相にも、私自身の真相にも、近づきたくないと思っている。そしてその望みは未来を見据えた上での選択であることに、薄々気づいてもいた。
「昨日は土砂降りで、今日はこんなに快晴。春はこんなにコロコロ変わるんですね」
「天気?」
「そう、天気。…春島を思い出します」
最後の一言は私に向けられていたようでもあるし、もしかしたら私というフィルターを通した別の誰かなのかもしれない。私は一瞬考えて、返事をしないことにした。返事を考えてわたわたと焦る数秒があるなら、そのぶんも全て彼の心のことを考えていたい。

彼のために生産されている煙草があるんじゃないか。私はいつもそんなふうに考えている。彼の洋服からはふわりと心地の良い香りが漂ってくる。しかしその香りの根源をたどってみれば、結局は煙草なのだ。幼少期から嫌になるほど聞いていた煙草の害の話が、それに気づいた時いつも頭のてっぺんでぐるんぐるんと音をたてて回り、思考を中断せざるをえなくなる。今もそうだった。バイクの後ろに乗りながら、
「サンジ」
後ろから小さく声をかけてみた。
声が小さすぎたのか、彼は気づかない。私は靡くブロンドをいくらかの間見つめていた。…死んだ友人。遠い話と近い話。生きている、匂い。サンジの生きている匂いとはつまりこの煙草の匂いなのだろうか。そうだとしたら私の生きている匂いとは一体何なんだろうか。そして死んでしまったらその匂いは何処へ消えてしまうんだろう。騒音にしかならないバイクのエンジン音は、しかし今の私には要らぬ思考を掻き消すのに充分なものだった。
サンジに聞きたいことなら沢山ある。沢山ある。だけれど、疑問を持つこととそれを口に出すことがイコールとして繋がらないのは何故だろう。悲しくなってしまって彼の背中に寄り添った。この香りは私の涙をさそう。この騒音が私の独白を助けてくれるかもしれない。小さく、呟いた。
「サンジ、私、好きとか嫌いとかよく分からないけれど、あなたのことがとても大切かもしれない」
驚いたような綻んだような赤面したような、つまり何らかの反応を示したような気配が向こう側から見られたけれど、サンジは海に着くまで私のことを振り返らなかった。



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