メロンパンどころかピザやアップルパイやとにかく様々なものを持ってきた彼は満足そうにソファに腰を下ろした。もはやそのソファとキッチンは彼の定位置になりつつある。そのことに居心地の良さを覚えた私はやっぱり彼のことを信頼しきっているのだと思う。 「実習だったんですけどね、終わった後に調理場借りたんです」 「調理師専門ってコースとかあるでしょう?カフェとかホテルとかベーカリーとか。…あなたオールラウンドすぎない?」 「昔世話になったやつがいたもんだから、学校で習わなくてもこれくらい出来ます」 料理は習うもんじゃないんです。 テーブルにそれらを並べ終えた彼は、しんとしたこの部屋でしばらく考えるように黙った後、ゆっくりと立ち上がってベランダへ出た。私は目の前のメロンパンと煙草のケースを見つめながら、無意識にその空間を目測しそれから顔を上げて向かいのソファとの空間を測った。 そして彼との距離があまりにも遠いことに気づき、何だか悲しくなってしまって私もベランダへ出た。 「ん、…寒いでしょう、大丈夫ですか?」 隣に立った私に気づいた彼は、ここに来た疑問より先に身体の心配をした。ここ2週間そればっかりだ。何人かと分け合っても余ってしまいそうな優しさと気遣いに、私はいつでも笑ってしまう。 彼の吐き出した紫煙のあとを目で追いながら、昨日置いていった煙草を差し出した。 「大丈夫。そういえば昨日、煙草忘れてったわよ」 「ああ、忘れましたね」 「確信犯だったりして」 「図星」 19歳らしい快活さで彼は笑った。私はなんのことだかさっぱりで、隣で首を傾げていた。 「いや、深い意味は無いっていうか、その、保険ですかね」 「保険?」 「もし冷蔵庫空けてくれなかったら、おれ今ここに居ないでしょう?だから思い出してくれたら良いなと思って」 煙草を受け取った彼はおもむろに空を見上げた。今日は曇天。雲の方へ煙が溶けていく。
「サンジ」 「え?」 「おれの名前」 彼がどんなに勇気を出してその言葉を放ったことか。私はしばらくその言葉をかみしめてから、空を見上げて心の中で3回、「サンジ」と呼んでみた。びっくりするくらいしっくりくる名前だった。 「サンジ」 「…ん」 「サンジ」 「なんだって」 「ああ、名前を呼べるってすごく、すごく幸せね」 微笑む以外の笑い方を忘れていた。ほんとに面白くても幸せでも、私は口角を上げるくらいのことしか出来ないと思っていた。久しぶりにこんなふうに笑えた、と思った。少し肌寒い風が吹くが、何も気にならなかった。 「遠い話だけでいいなんて馬鹿みたいね。名前を呼べるだけでこんなに幸せなのに、遠い話をしたって砂の中に埋もれるだけ」 私は右隣にいる人間にどんな名前がついているのかを知っただけでこんなに幸せなのだ。心の中の暖まるところを感じながら、私は先程のように彼との距離を目測しようとした。振り返ると、違和感のない流れで彼は私を抱きしめた。 0だ。 サンジの洋服は知らない世界の香りがした。この部屋に引きこもっている私なんかと違って、様々な場所で生きているサンジを羨ましいと思った。母が不快だと眉をしかめていた煙草も、今この瞬間は愛すベきそれに変わった。私も腕を回して体温を感じた。 「サンジ」 「ん」 「ゆっくりでいいから、いろんな話をして」 「ああ」 掠れて掠れて、埋もれて、まるで沈み行く船のような感覚がした。そしてその感覚は、抱きしめた彼の向こう側から感じる潮の匂いからくるものなのだろうと思った。懐かしいという感情とはまた違う。「遠いところ」から私を呼びかける何か、大切な記憶の層の深い場所。 「サンジ」
ああ、彼は泣いていた。
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