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彼に両親はいるが今は専門学校の近くで一人暮らしをしていて、近所の野良猫に残飯をたかられるのが最近の悩みらしい。この前学校で作った創作料理で、講師から学年一位の評価を貰ったという。バイトは週五回の新聞配達と休日の居酒屋のキッチン担当。一週間ほど前に気に入っていた靴を履き潰してしまい、新しい靴にはまだ慣れない。将来はホテルのコックになれればいいと思っているそうだ。
とんでもなく細かい話から、大雑把に周りだけなぞったような話まで、彼はこの2週間でそれはもう色々な話をしてくれた。けれどそれは全て何らかの違和感を抱えたものだった。私はその違和感について考える度、以前彼の言っていた「おれの友達も、多分死にました」という言葉が何度も頭の中で浮かんだり沈んだりした。私は何度もその違和感についてなんとか彼に伝えようと試みたが、全て喉の奥で言葉になることを忘れてしまったかのように、ぱっと消えていった。

ある日勇気を出して浴槽の蓋を開いた。私が想像していた血みどろのそれはもはや残り香さえ残してはいなかった。ちょっと考えれば分かる話だ。彼が随分前に、掃除をしておいてくれたのだろう。
「…なんで言わないのかしら」
彼は私に様々なことを与えてくれるが、それは見返りを求めるような行動ではなかった。しかも私の気づかないところで、こっそりと働くのだ。例えば今日、私が目覚めてみると彼は何事も無いかのようにキッチンにいたが、彼が帰ったところで冷蔵庫を開いてみたところ、そこには空っぽの陳列棚と小さなメモだけがあった。
今日は彼が食材を冷蔵庫に入れてからちょうど2週間が経つ日だった。冷蔵庫のモーター音の響く中、私はゆっくりとメモを開いた。

“ちょうど2週間が経ちました。もしあなたがおれの飯をまた食べたいと思うなら、電話してください”

中性的に整った文字の下には、携帯の番号が記されていた。ああ、彼はなんて律義で、それでいて意気地なしな男なんだろうとちょっと笑ってから、私は携帯の番号を押した。2コールしない内に、向こうの喧騒が聞こえてきた。
「もしもし」
「私よ」
「…気づいてくれてよかった」
「気づかなかったら私死んでるわ。それにまだ、食べてないのよ」
「夕飯つくっといたでしょう?」
「違うの、メロンパン食べてないわ」
そう言うとあきれたように彼は笑った。「明日は午前に学校があるから、終り次第行く」と一言いってから、通話を切った。その後、向こう側の喧騒は彼にたかる猫たちの声だということに気がついた。どうやら彼はまだ猫たちの食料源であるらしい。夕飯を食べてから彼の電話番号を登録しようとして、さて名前はどう登録したものかと少し悩んだ。結局登録名は「調理師」になった。

浴槽が綺麗だということが分かったので、久しぶりに浴槽に浸かった。ふとした瞬間にあの記憶がフラッシュバックするのはどうにも居心地悪かったが、その度彼の作ってくれたご飯を思い出したり、何の生命も育まないお腹を触ったりしてやり過ごした。
それにしても、彼は何故人間の生命を「匂い」で判断するのだろうか。以前「ヒトの匂いがしない」と言ったり、「生きてる匂いがしない」と言ったり、私にはてんで分からないようなことを考えていたようだ。その時また、「おれの友達も、多分死にました」という言葉が頭の奥で鈍く光った。

彼が私のことをもっと知りたいと思うようにまた、私も彼のことを知りたいと思いはじめていた。そしてそれを異常なことだとは思わなかった、必然だ、と思った。

食べた食器を片付けていると、シンクの脇に煙草のケースが置かれていた。持ち上げてみるとまだ半数以上残っているようだった。煙草のケースなんてこんな間近で見るのは初めてだった。それは小さく綺麗な白地で、私にとって幼い頃大切に食べたチョコレートのパッケージを彷彿とさせた。
私の家族は大きな医院の産婦人科に勤める母と、その医院を経営している父がいた。生まれ持った境遇から、煙草と言う存在を知ったのも高校に入ってからだ、とんだ深窓の令嬢である。
どちらとも常に忙しそうで、しかし私のことを何よりも大切にしてくれた母は、時々私を職場まで同行させてくれていた。生命の誕生に心をふるわせたり、また母親であったものが突然女に引きずり下ろされてしまう瞬間を見て愕然としたりした。どんなに毅然とした女性でも何を考えているのか分からないような女性でも、自分の中で育んでいた生命が、つめたい無に還ってしまう時は何と言ったらいいか。

そんなことを思い出しながら、私は煙草を机の上に置いてリビングの電気を消した。




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