「最近何か肩が重いんだよね」
「そうなの?」
"そうそう、なんかこう動かしづらいというか。凝ってるのかな?"
そう言って肩を押す友達の姿を見ながら、「ふーん」とストローから残りのジュースを飲み干した。
少し氷が溶けたその味は相変わらず苦手で、思わず顔を顰めた私を見て笑っていた友達の声が、昨日の事のように思い出せる。
初めはそんな、些細な事だったと思う。
「よし、ちょっと肩貸してみ」
席から立ち上がりそう言った私に、"お、なんか期待できそう"と友達の声が続いた。
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「え、すごい!めっちゃ肩軽くなった!!」
「ほんと?良かった」
"いやあ、明里はまじでプロのマッサージ師になった方がいいって皆に宣伝しとくわ"
"いや普通に恥ずかしいからやめて"
そんな軽い言い合いをして、また二人で笑った後にスマホの画面を開いた。時間は既に六時半を回っている。
あと三分で来るよと伝えると、嘘!と声が返ってくる。嘘じゃないってと画面を見せると、友達は"また後で連絡する!今日はありがとう!!"と、そのまま全速力で駆けて行った。
最後まで騒がしい友達の姿に思わず笑いながら、転ぶなよ〜と手を振り。友達の後ろ姿が視界から見えなくなったのを確認してから、ふと掌を見つめた。
何の変哲もない、普通の右手。
あの時、なんで掌を見たのかは覚えていない。
多分だけれど、その時から嫌な予感はしていたのかなと思う。
「…?」
後ろに誰かいる様な気配がして、振り返る。
無論誰も居ない道が続くだけで。ざわざわと葉の擦れる音だけが耳に届いた。
何故だかその音まで怖くなって、それから隠れる様にプレイリストを開き、最近気に入ってるアルバムのシャッフルボタンを押した。
それでも不安な気持ちは拭い切れなくて、気持ち少し足早にその場を去った。
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それから、多分二週間ぐらい経った頃だと思う。
「ごめん明里、また頼んでもいい?」
"ほんとごめんね、こんな肩凝るなら本屋のバイト辞めようかなーって思ってんだけど…"
先日のあの時の事を少し思い出して、一瞬断ろうかなと思ったけれど。
両手を合わせて頭を下げてくる友達の姿を見ていたら、根拠も無いことで断るのもあれかと思って。
「うん、全然いいよ」と、笑いながら頷いた。
学校も終わり、今日は少し肌寒いなと 到着した電車に飛び乗る。この時間帯の最後尾車両はあまり人が居なくて楽に座れるから好きだ。席に座り、ふとスマホを開くと。幾らか通知が来てるのを見てそれらを開く。
通知は友達からだった。
最近流行っているカフェの画像、『今度このカフェ行かない?マッサージのお礼に奢る!』の文字に一気に嬉しくなった。
『いいの?結構高くない?』
『いいっていいって!好きなもん食べな』
にやりと笑った絵文字が可愛い。この表情の友達の顔が簡単に想像出来て、ふっと思わず笑いそうになる。
好きだなあ、と改めて思った。
ありがとう、と送った後に色々と話を進めていった。待ち合わせの時間と場所、それと予約の事。
『じゃあまた、来週の日曜に』
楽しみです、というスタンプを送信した瞬間。近くで赤ちゃんの鳴き声が聞こえた。
ここら辺はかなり揺れるからな、仕方ないと思っていたけれど。
何だか様子がおかしい。
先程からぐすぐす泣いてる声が聞こえていたけど、段々と酷くなってるような気がして。
あんまり見るべきじゃないけれど。ちらりと顔を上げたその瞬間、ぞわりと背筋が凍った。
お母さんに抱っこされてる赤ちゃんの傍に、何かがいた。何か、私はそれを形容出来る言葉を持っていない。黒くて、禍々しくて、数え切れないほどの目と、端まで裂ける口のある。得体の知れない何か。
周りを見ても、皆殆ど気にしていない顔をしている。
よく見たら"それ"は、お母さん自身の肩に張り付いている様な。そんな風に見えた。その瞬間、お母さんとぱちっと目が合って。「ごめんなさい」と頭を下げられる。いいえ全然、大丈夫ですよと小さく言葉を返す。違う、謝らせたかった訳じゃない。
どうしよう。気づいているのは私だけらしい、と思っていた途端。今度は泣いている赤ちゃんと目が合った。涙に潤んだ大きな瞳が、真っ直ぐにこっちを見てる。
その時、私の心には多分恐怖心とかは一切無くて。ただ、目の前のこの小さい子を見過ごす様な大人にはなりたくないって、そう思ってた。
「大丈夫大丈夫、怖くないよ〜」
吃驚して目を丸くした赤ちゃんに、にっこりと精一杯笑って手を軽く振る。
「本当にごめんなさい、ありがとうございます」
「いえいえ全然、少し触れても大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん」と返されて、ありがとうございますと赤ちゃんに視線を戻した。小さいその手に手を近づける、すると。きゅっと指を握られた。
こんなに小さい手、よく頑張ったね。怖かったね、と心の中で呟く。
繋がれた赤ちゃんの手から、何かがこっちへ移って来る様な感覚がした。ごくりと唾を飲み込む。
怖がるな、震えるな。
兎に角、この子をパニックにさせたら駄目だ。
「あ、泣き止んできた… 本当にありがとうございます。」
「いえいえ。私、赤ちゃんが好きなんです。」
あの時、上手く笑えていたらいいなと思う。
後ろに隠した手の平に、深く爪が食い込んでいた。
途中、その親子が降りるのを手を振って見送り。そのあと最寄り駅を告げる車内アナウンスが聞こえて、私も電車から降りた。
心做しか、少しだけ息苦しい。
大丈夫、きっと車の通りが多いからだと自分に言い聞かせて。そのまま歩き出した。
気を紛らわす様に、スマホの画面を開く。通知が来ていて、その隣に友達の名前があってほっと息をついた。
だけど、その文面を見た途端。ひゅっと息を飲んだ。
『そういえば最近なんかあった?』
『なんか顔色ちょっと悪く見えた』
心臓がばくばくと鳴り出す。
今、歩くのを止めたらダメな気がして。足を進めた。
そうだ、音楽でも聞こう。そしたらまた何も起こらずに済むと、イヤホンを取り出そうとしたその瞬間。
"見えてるんだろう"
聞こえたのは、知らない誰かの声。
私は知ってる。こういう問いに、答えては駄目だ。
"答えないつもりか"
"まあもう既に手遅れだ。足元をよく見てみろ"
見ちゃダメな事は分かっていた。だけど、何かが足に登ってくる様な、そんな感覚がして。振り切るように走り出した。
無駄だという声が何度も聞こえた、だけど気持ちで負けたらダメだって思った。大丈夫、絶対大丈夫って信じてればどうにかなる。今までだってずっとずっとそうだった。
途中、今はあまり使われていない神社の鳥居が見えて。そこ目掛けて走って向かった。
狛犬様の近くまで寄って、その場にしゃがみ込む。
走ったからか、何故なのか分からないけれど。無性に息が苦しくて、酸素、酸素を送らないとと口を開いた。けれど。陸に上がった魚みたいに、はくはくと口を動かすことしか出来なくなっていた。
怖い。
大丈夫大丈夫、絶対狛犬様が助けてくれる。
そう自分に言い聞かせていた、その時だった。
「玉犬」
誰かの声、凛としたその音が耳に届いた瞬間。目の前を防いでいた硝子が音を立てて割れた様な、そんな気がした。
息苦しさが薄まって、息が吸える様になり必死に肺に酸素を送る。
けほけほ、と何度か噎せた後に顔をあげると。
石段の上に立つ、一人の男の子の姿が見えた。
少し特徴的な黒い髪と同じ色の目を持つ男の子だった。夜空に溶ける様なその黒髪、伏し目がちな目に影を作る睫毛。月明かりに照らされた肌も驚く程白くて。たった一瞬見ただけで、思わず見蕩れてしまう様な。綺麗、という言葉が最初に頭に浮かんだ。
狛犬様が助けてくれた、と本気で思ったけれど。
その時、奈落に近い恐怖心から解放されたかった私の口から零れ落ちた言葉は、全く違うものだった。
「ひ、と?」
喉を抑えつけられてる様な、かなり苦しい状態だったけど声を絞り出す事ぐらいは出来た。
多分、その時は神様よりも人に会いたかったのかもしれない。
そう、たった一言声を出した私に、目の前の彼は驚いた様に目を丸くしてこう言った。
「あんた、話せるのか」
これが、私と伏黒くんの初めての出会いだった。