V
その次の日。
私は少女はもう来ないだろうと思っていた。けれど少女は今日もやって来た。たんぽぽの花園に。私は驚いて尋ねた。
「どうしてここが分かったんだい?」
「たんぽぽのね、綿毛が沢山、こっちから飛んできたから。」
私は花園を見渡した。風に吹かれても吹かれても、綿毛は途絶えることなく舞い上がり続けている。少女はこれを目印にここまで来たようだ。
「昨日の木苺ね、おかあさんがジャムにしてくれたの。だから、パンと一緒に持ってきたの。昨日のお礼」
少女からバスケットが差し出される。そこには木苺の代わりに、真っ赤なジャムとパンが入っていた。
「一緒に食べてくれる?」
「…うん」
◇◇◇
人間と一緒に食べ物を食べるなんて、いつぶりだろう。もう五十年ぶりにでもなるかもしれない。木苺はいつも食べていたけど、少女と食べるその同じ木苺から作られたジャムは不思議といつもより美味しく感じた。砂糖が入っているから?違う。確かに甘くて美味しいけど、きっと、いつもより美味しいのは、心のどこかで楽しかったからだ。
◇◇◇
そのつぎの日も、またつぎの日も、少女はやって来た。やって来ては、何か美味しいものを持ってきたり、他愛の無い話をしたり、覚えたての歌を歌ったりした。私はいつの間にか、少女の訪問を楽しみに毎日過ごしていた。たんぽぼの季節が終わり花園までの道しるべが無くなったら、代わりにその時々の季節の花を花園までの道に生やして、道しるべにした。少女が少しでも楽しめるように、花園に小さなブランコも作った。少女はとても喜んでくれた。最初、少女は一人でブランコをこげなかったから、私が背中を押してやった。私が背中を押して高い位置に上がる度に、少女の明るい笑い声が花園に響いた。
やがて時は流れ、少女は一人でブランコをこげるようになり、立ってこげるようにもなっていった。少女は成長して、女性になっていた。
彼女と過ごす間に、私は人間が森に入っても、森を荒らしさえしなければ、殺さずにそっと出口まで導くようになっていった。彼女を通して見る人間達の生活や優しさが、少しずつ私の心をとかしていったからかもしれない。
けれど、彼女に森の外の世界の恋人ができると、彼女が花園に来ることはだんだん減っていった。
仕方がないことだ。人間の一生は短い。森の守り神である私にとっては一瞬程度に感じる長さだ。その短い時間を、いつまでも私のもとへ来るために割けるはずがなかった。
そしてある日、ついに彼女は言った。
「私ね、結婚することになったの」
彼女はその時、ブランコを立ちこぎしていた。いつもより高い位置にある顔とその表情は、私からはよく見えない。私は黙って続きを待った。
「私が結婚する人はね、私の町の、次の町長さんで、とっても優しい人なの。この森みたいに。私達、これから皆にもっと森を大切にしてもらえるように、また人と森が一緒に助け合えるように頑張るつもりなんだ」
そこまで言うと、彼女はちょっと黙って、それから小さな声で言った。
「…結婚したらね、多分、この森の奥まで来ることは無くなってしまうかもしれない。私達、とても忙しくなるから…」
「…」
私達の間に沈黙が流れた。それから彼女はブランコからふわりと飛び降りて着地した。私はその様子を見て苦笑した。
「お嫁さんになる人が、そんなお転婆でいいのかい?」
私にとっては、彼女はまだまだあの頃の幼い少女に思えた。そう思いたかった。けれど私は彼女に近づいて、彼女の目を真っ直ぐ見て、
「結婚おめでとう。森の祝福が、君の未来に幸福をもたらしますように」
彼女の頭にたんぽぼの花冠をのせた。それから彼女に、昔私が預かったままだったハンカチを返した。…ようやく返せた。
「ありがとう…。このハンカチ、森の匂いがするね。大切にする」
はにかむ彼女の幸せな顔を、私はどんなに時が流れても、決して忘れないと誓った。
それから、私達はお互い微笑みながら別れを告げた。
彼女が森を去ると、ブランコを揺らすのは、もう森を吹き抜ける風だけだった。
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