TEXT 02 | ナノ
 後頭部でごりっと、冷たい無機質な鉄の塊が擦れる音。
 ギラリと黒光りする“それ”は、まるで獲物を捕らえるようにこちらへ口を向けている。
 目の前にはそれを笑って見詰める男が、二人。

 さあ、一体、どうしてこんなことになったでしょう?


愛しアンダーワールド
Prologue:カウントダウンは始まった



 2018年。世界が混沌に包まれ、荒れに荒れていた時期。各地で革命や紛争が起こり、辺りは無法地帯と化していた。そんな最中(さなか)、レジスタンス狩りと称して政府が各地に作ったゲートは、地域を細分化させ民衆を自由に行動できなくさせる。当初は、紛争を避けるためだと言われていたはずのそれが、今となっては立派な住民監視システムとなり果てていた。
 やがて訪れた、貧富の格差。物乞いがあふれ返った街は廃れ朽ち果てていく。“貧しいものは死に逝け”そう言わんばかりに、この世界は住みづらいところになってしまったのだ。
 ――それでも、生きなければならない。死ぬ勇気さえない者達は。


「っ、だる、」

 時間の感覚なんてものはすでに無いに等しい。最近では曜日の感覚まで曖昧になってきて、辛うじて店の“Specialday”で軌道修正をしている状態だ。毎日もやのかかった薄暗い街中で、うんざりしながら同じことを繰り返す。
 そんな人生には、いいかげん嫌気がさしていた。けれど、仕方がない。生きるためにはお金が必要で、仕事をすれば時間は束縛されていく。諦めなければいけないのだ、この現状に。
 はあ、とひとつ溜息がこぼれた。いくら割り切ったところで、この気怠い気持ちが簡単に遠退きやしないことくらい、わかりきっている。私はいつものように、くしゃくしゃになった煙草の箱に手を掛けた。――息抜きをするなら、これに限る。と、おもい取り出したライターは、どうやら使い古された物だったらしい。
 昨日つかったときに火花しか出なかったのを思い出して、小さく舌打ちしつつお決まりになった店へ歩を進める。

「ここからは、D地区ですのでIDを」
「……」

 苛々してしょうがない。ニコチン切れの所為もあるけれど、この舐めまわすような“Gatekeeper”の視線も、いちいち出さなければいけない証明書も。――こいつ、昨日の三番テーブルの客、か。

 今の店で働くようになって、何とかこの“証明書”を手に入れることが出来た。これがなかった頃は街の全体像すら知らず、自分が何処にいるのかもわからなかったのだから、いま思えば恐ろしい。けれど、あの頃はそれが普通だった。今でさえ、ここにはそんな人間がごまんといるのだ。ひどく狭い場所でペット同然の生活を送ることが、彼らにとって日常と化している。
 ゴミ漁りなんてしょっちゅうしていたな、と物思いに耽って視線を遠くへ向ければ「昨日、よかったですよ」にやり、気味の悪い笑みを浮かべて話しかけてくる、おとこ。反射的に背筋が、ぶるりと震えた。――話しかけてんじゃねえよ!
 胸中でそう悪態を吐いて、男に侮蔑の眼を向けながら証明書を引っ手繰りゲートの扉を開ける。変わらず、じとりとした視線が背中を這いまわって不快極まりない。――国務警備員だかなんだか知らないけれど、キモいんだよ。と叫べればどんなにいいことか。そんなことをすれば反逆者だなんて言われて捕まるのがオチなんだろうけど。
 更に増していく苛々した気持ちをなんとか堪え、足早にその場をあとにした。結局、変わらないのだ。嫌気が差して飛び込んだこちらの世界だって、案外まえの生活と変わらない。散歩できる範囲が増えただけで、ペットは所詮どこまでいってもペットなのだから。

 暫く歩いていけば、薄っすらと視界の先に見えてくる“CAFE&BAR”の文字。いつの間にか詰めていた息を、そっと吐き出して駆け寄るように速度を上げる。――だめだ、このままだとニコチン不足で死んでしまう。
 急いで店の扉へ手を掛ければ、扉に付いている鈴の音がちりんと店内に木霊して、来客を知らせていた。次いで、響く初老の男性が持つ特有の嗄れ声。もうすっかり馴染んでしまったそれが聞こえる――はずだった。のに、響いたのは聞いたことのない若い男の声。
 私は僅かに瞠目すると、視線をカウンターの方へ向ける。そこには、眼にも鮮やかな金髪をさらりと揺らした長身の男が立っていた。手入れが行き届いている柔らかそうな髪、艶のある滑らかそうな肌、シャープで整った目鼻立ち。こちらへ向けられた琥珀色の目許には、主張するように長い睫が鎮座し目尻へすっと流れている。何処をとっても所謂、美形の部類に入るだろう容姿を彼は持っていた。
 若い人が少ない所為もあるけれど、人目をひくには十分ととのった外見で男がにこりと、笑みを浮かべる。

「いらっしゃいませー」
「……」
「えーっと、あの、…座らないんスか?」

 あまりにも私が凝視しすぎた所為だろう。カウンターの男は最初こそにこやかに迎え入れてくれたものの、そのうち視線を左右に彷徨わせ手を落ち着きなく動かし始めた。思わずその焦りようにふっと、笑みが洩れてしまう。
 店では滅多に笑わないことで有名な私が、有り得ない。客だからと云って媚を売ることを極端に嫌う私は“来る者を拒み、去る者も追わず”な、お高く留まったオンナだとよく云われる。来ないなら来なければいいなんて精神は、普通ならやっていけないだろう。けれど、常連客はそこがいいと連日、金を落としていくのだから――まったく、男の考えることはわからない。
 それとなく表情を戻しつつ、私は四散していた思考を収束させるとカウンターの席へ腰を下ろした。「ジェフは?」いつもの定位置はやっぱり居心地がいい。男に尋ねながらポケットの中を漁る。

「ジェフ、あー、ああ、マスターならちょっと所要で、」
「ふうん」

 ――マスターなんて似合わない呼び方させて、何やってんのあの男。呆れた表情をつくり、視線を男へ投げかけた。
 ジェフは、この店を経営している初老の男。白髪交じりで目許の皺が優しい雰囲気を漂わせているけれど、むかし、紛争時代には過激派に所属していた革命家らしいと彼から聞いていた。他人を易々と信じるな、が彼の格言らしい、が。眼前の男はいったい、何処から連れてきたのだろう。いままで、一度だって見たことがない。
 思考を巡らせながら「いつもの」と、頼みかけてかちりと合わさる視線。目が合った途端に男はこちらを窺うようにいちど、瞬きをする。私は僅かに逡巡して、これじゃあわからないかと思い直し傍らに置かれたメニュー表を開いた。
 久々に広げたそれは、最初の頃よりもだいぶ品数が減ったように感じる。一人でやっていくには多すぎたのかもしれないし、客足だってたかが知れているのだから、当然と云えば当然のことだろう。何よりこのご時世で食糧調達が馬鹿にならない。定番の注文しかしてこなかった私には、ここまで経営が大変になっていたなんて気づけなかった。

「フレンチトーストとコーヒー。ブラックで、」
「あーはい。って、えーっとパン何処だったスかね…」
「……」
「いじょうで?」

「あと、セブンスター。1カートン」

 こんど金が入ったら多めに注文してやろう、と気休めにしかならないことを胸中で思いながらそう付け足す。一瞬、表情を固めるカウンターの男。――本当に、こいつで大丈夫?
 怪訝な眼差しを向けつつ、まるで「煙草?」とでも云いそうな表情の男に私は腕を向けた。ぼそりと、呟かれた言葉も腑に落ちないが今はなによりニコチンが欲しい。男のうしろにある戸棚を指差し「そこの上から二番目の箱の中」とだけ短く伝える。
 慌てたように手荒く棚を探たあと、カウンターの上へ差し出された煙草のケース。男から受け取ったそれに指を伸ばして、先程からポケット内を漁っている手に触れた潰れてくしゃくしゃの箱を取り出した。
 一本だけ残った煙草を中から出し、眼前の男へ視線を向ける。小首を僅かに傾げる男の髪が、さらりと流れた。

「て、だして」
「え?」
「あげる」

 受け取った途端「どうもっス」と爽やかに返しながら、手中の潰れた箱を一瞥して厨房の方へと移動していく男。返された声は表情とは裏腹に驚いたようでも、怒ったようでもなく、まるで色を持たない無機質なモノだった。
 何処か変わった男の後姿に視線を向けつつ、近くにあったベコベコに潰れてしまっているアルミの灰皿を、手探りで手繰り寄せる。持っていたライターは使い物にならないから、他の客が捨てていった廃品ライターを拝借しようと塵箱の中を探った。その中から良さそうな物を何本か見つけ、カウンターへバラバラと集めていく。
 ライターを分解して底に僅かだけ残っているオイルをかき集めると、漸く出来た即席ライター。擦ると生まれる頼りない火を咥えた煙草に近付れば、ジュッと短い音をたてて先が赤く染まり、紫煙が立ち上っていった。
 どうせ、もう要らない物なら貰ってもかまわないだろう。作ったばかりのライターはそのままポケットへと忍ばせる。思いっきり煙を吸い込めば、身体中へとニコチンが行き渡ってゆく感覚。苛々したときには手放せない。ニコチンは既に私の精神安定剤になっていた。――もう、末期の依存症。末期の中毒者。
 苛々しすぎて、ぎすぎすしていた心が一気に落ち着いて行くのを、瞑目してゆっくりと味わう。

「はあ、」
「ご注文通りのコーヒーと。フレンチトーストです」

 恍惚の表情で煙を吐き出すと、丁度いいタイミングで目の前に置かれた品々。慣れない手つきでここまで出来れば立派なものか、とも思ったけれど店を任されるにはまだ早過ぎやしないか。
 端が少しだけ焦げすぎているフレンチトースト。煮出し過ぎたのか、沸騰させすぎたのか。異様に酸っぱさが後味をひくブラックコーヒー。甘すぎる味に眉間を寄せ、飲み干したカップの底には出涸らしが残っていた。「他のなら、もうちょーっと上手くできるんスけどね」なんて、人懐っこい笑みを浮かべる男には、どうやら“繊細な料理”は不向きらしい。「ごちそうさま」一応れいを告げ、カウンター上にチップでもらった皺だらけの紙幣を乗せる。
 席を立てば「ありがとうございましたー」間延びする声が店内に響いた。それを背に歩き出して扉に手を掛ければ、ふと男が小声で何かを囁く。

「また、あとで、」

 彼の声に反応して振り向きざま、閉まり行く扉の隙間から彼に視線を向けた。ゆっくりと、スローモーションのように閉まっていく扉。実際はもっと早いはずなのに突然の出来事で脳がついていかないのか、時間がやけに長く感じる。
 にっ、と真横へ伸びる口許は片方だけ皮肉そうに吊り上り、琥珀色の双眸が私をまるで嘲笑っているかのようだった。ぱたりと何事も無かったように閉じた扉に遮られ、濁った鈴の音がちりんと不気味に音を響かせる。頭の中で反響する言葉。背筋にぞわりと悪寒が走り、もういちど店内に足を踏み入れようという気にはどうしてもなれなかった。

 このとき過った嫌な予感に、私は少しでも従えばよかったのだろうか。