TEXT 01 | ナノ
 懐かしい声が聴こえる。「涼ちゃん」眼前の女の子がそう口にして、ふにゃりと微笑んだ。俺の名前は果たして、なんだっただろうか。ふと、思い立って首を傾げるも、俺の思考回路はすぐに考えるのをやめてしまう。
 彼女の纏う空気があまりにも穏やかな所為だろうか。それとも。――ああ、幸せだなあ。胸中で呟きはすれどそれを口にすることは出来なくて、意気地のない俺は水滴に濡れたグラスを傾ける。食道を流れていったアルコールは、じわりと俺の胃を熱くさせた。


「……ちょっと! 黄瀬くん、聞いてるの?」

 突然ひびいた金切り声に俺の肩がびくりと震える。四散していた意識が一気に収束していき、視界に飛び込んできたのは眉間に皺を寄せる女の子の、訝しげな表情だった。――あれ、おれ、いま。「ごめん、名前!」上手く回らない思考で、考えなしに口を開くもんじゃない。声にだした途端、しまったと思っても、もう遅いのだから。
 折角、取り繕おうと紡いだ言葉は、意図せず逆の効果をもたらして俺に降り注ぐ。対角線上にあった眉毛はみるみる吊上っていき、今まで見たこともないような彼女の表情を作りあげていた。ばん、と勢いよく叩かれたテーブルの音に、俺の鼓膜が悲鳴を上げる。ぐわりと開かれた口は、今にも獲物に噛み付かんとするようでぞわっと背筋に悪寒が走った。
 そこから浴びせられるのは、数々の罵詈雑言。お淑やかだった彼女の面影など微塵もなく、その外見からは想像もつかないような言葉で罵られ、周りの視線が痛いほど突き刺さる。名前を間違えるなんて最低だ、と叫んだ彼女にただただ肩身が狭くなるばかり。店員が止めに入ろうかと何度も目配せさせてくるも、彼女の剣幕に押された俺はそれを丁重にお断りすることしか出来なかった。これ以上ことを荒立てられるとやっかいだ。終いぞ手をつけられなくなる。とうとう席を立ちあがった彼女は、最後に捨て台詞のごとく「キセリョはもっとおしゃれな店に連れてきてくれると思ったのに、こんな店! 幻滅した! さいってい!!」と、吐き捨てて店の暖簾を潜っていった。
 猛獣が去って行った席を呆然と見つめること数秒。「店の中でそんなこと言う方が最低だと思うんスけど…」思わず零れてしまった声に店員が笑い声を上げる。一瞬、静まり返ったかと思えばふたたびガヤガヤと騒々しさを取り戻した店内で「色男は大変だなあ」と見知らぬ人に声を掛けられた。「がんばれよ!」「まあ、今のはいただけねえけどな」居酒屋に良く似合う威勢のいい声が飛び交うさまを、何故だか俺は懐かしく思う。――ああ、後姿が少しだけ似てると思ったのに。さして悲しくもならない自分に、苦笑が洩れた。

 いつもの俺なら居酒屋を初デートの場所には、選ばない。けれど、気付いた時にはこの店の暖簾を潜っている自分がいた。「えっ?」と、数歩後ろで素っ頓狂な声をあげる彼女。振り向けばひくりと口端が震えていたけれど、見ないふりをして足を進める。強引に店内へ入れば、案の定わいわいと騒がしい声が何処の卓からも聞こえ、店員が注文を読み上げる大きな声が木霊していた。似てる、脳がそう判断した時にはもう遅い。連れていた女の子のことも忘れ、俺は空いていた隅の席へ腰を下ろしていたのだから。
 ――だから、罵られても、まあ仕方ない。全ては“あの夢”の所為なのだ。

▲▽▲


 最近、何度も同じ夢を見る。営業終了を間近にひかえた居酒屋で、眼前には一人の女の子。店の隅っこを陣取って、いつ注文したのかもわからない料理や酒が次々と卓上に並べられていった。すでに俺の思考はとろりと溶け出していて、上手く言葉がまとまらない。真向かいの彼女も、ふにゃりとだらしない笑みを口元に浮かべながら、グラス片手にカラカラと氷を揺すっている。
 店長らしき人が「まあた晩酌か。いい気なもんだな、お前らも」と、俺達に向かって口を開いた。言葉遣いは辛口なのにその目許は優しげで、その不釣り合いさに俺はすこしばかり声を洩らして笑う。彼女もそれにつられて笑い声を上げるのを横目に、ゆっくりとした動作で俺は小鉢に向かって箸を伸ばした。疲労感の溜まった身体が、それだけの動きでバキバキと悲鳴をあげる。重い物を持った所為なのか肩が凝って仕方がない。そんな、やけにリアルな夢だった。

「このじかんが、いっちばんしあわせー」

 間延びした声が真向かいから響いて、優しく俺の鼓膜を震わせる。ゆたりゆたりと、彼女の声がまるで空気に溶け出していくようで、誘われるように俺の瞼が下がっていった。「俺も、」と云う言葉は、結局ぼやけ始める視界に阻まれていつも出せないまま。気付けば自室のベッドに横たわっている俺がいる。
 最初こそは不思議な夢だな。くらいにしか、思っていなかった。けど次第に夢の中の彼女に惹かれていく自分がいる。今まで一度だって、居酒屋で働いたことなんかないのに。彼女だって会ったことも無ければ、名前すら碌にわからないのに。
 そう意識すればするほどこの夢が、じわりじわりと俺の現実を侵食し始めていた。それに気付いたのは、数日前。夢に出てくる人物によく似た人がたまたま、俺の横を通り過ぎたのだ。あれ、まさか。慌てて追いかけたところで、昨日の彼女に出逢い声を掛けたのが始まり。けれど、やっぱり似ているってだけで彼女じゃない。悶々とする日々が続いていた昨日、偶然あの居酒屋を見つけ出した俺は本能の赴くままに行動してしまった。
 店内に入れば見慣れた景色に感情が高ぶり過ぎて、結果、あの有様。進化しすぎた情報化社会も考えもんスね。なんて、その情報化社会の波に乗った現代っ子の俺が言ってみる。見つめた画面の先には無数の文字の嵐。着々と増え続ける呟きは留まることを知らず、昨日の出来事をありありと綴っていた。思わず頭を抱えそうになる。はあ、と知らず溜息が洩れ、せっかく久々に出席した講義も、右から左へと流れていくばかりだ。ひそひそと囁かれる声も相俟って、まともに授業なんか受けられそうにない。
 ――まあ、いつもちゃんと受けたためしなんてないんスけど。はあ、と再び嘆息を吐き出して、組んだ腕のあいだに顔を伏せる。ゆっくりと瞼を閉じれば、思考の端で赤がチラついた気がした。


「ううっ、もう、やだ…」

 いつもと違う声色に、はっとして顔をあげる。気付けばいつもと同じ場所なのに、いつもと違う出来事が起きていた。間延びする声もだらしない笑みもそこには存在してなくて、俺は一瞬どうしていいかわからなくなってしまう。テーブル越しに顔を近づけると、俯いて表情が窺えない彼女の顔をそっと覗き込んだ。
 涙に濡れた瞳。何度も鼻をグズグズと鳴らしている。いつもはからかいがてら声を掛けてくる他の従業員も、今日は空気を読んでの行動なのか。ちらりと遠くからこちらへ視線を寄越すだけだった。テーブルの上にはまだ何ひとつ物が置かれていない。
 彼女のいつもの調子からは考えられないローペースに、俺の心臓がきゅっと収縮する。

「名前…」

 呼びかければぐずぐずの声で「りょ、う…」と返された。よっぽど嫌なことがあったのか。顔は一向にあげられる気配がない。俺はアルコール度数の低めなお酒を持ってくるように伝え、さっきからこっちへ向けられている彼女の頭へゆっくり手を伸ばす。触れればさらりと手へ馴染む髪に、じわりと胸の奥が熱を持った。「…なにが、あったんスか?」自分のもてるだけの優しさを凝縮して、声に乗せる。応えるように上げられた顔と、ちらりと僅かに向けられる視線。
 ゆっくりと開かれた口から――「フられ、た」と、思いもよらない言葉を聞かされた。ぐわりと、俺の脳髄が揺れる。
 恋人いたんスね。だとか、そりゃそうか、だとか。意味もない言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えていくのをただ黙って感じていることしか、出来なかった。向けられた双眸が再び、決壊を迎えようとしている。それを見計らったかのように、ことりと静かな音をたてて二人の間に置かれるグラス。心配そうな表情でこちらを窺うバイト仲間に促されて、俺はやっと正気を取り戻した。――俺まで落ち込んでどうすんだよ。
 プラス思考に考えれば今がチャンスじゃないか、と自分に言い聞かせてもう一度、彼女の顔を見据える。グラスには彼女が好んで飲む中でも、あっさりと飲みやすく優しい味のカクテル。それに手を掛け彼女の前まで持ってくると、意識をこちらへ向けさせるようにグラスを僅かばかりに揺らした。カラリと氷のぶつかる音。

「ほら、ぱーっと呑んで嫌なことなんて忘れちゃえばいいんスよ」
「うっ、でもっ…」
「えんりょーしない。奢るから」

 逡巡するようにグラスと俺の顔を行き来する彼女の視線。口許に弧を描けば、おずおずと華奢な指がグラスに伸ばされる。「大体名前をフるなんて見る目ないんスよ、その男」漸くグラスに口をつけた彼女を見つめながら、次々と発せられていく俺の言葉。長い付き合いを物語るかのように、知らないはずの彼女について語りだす俺の唇。
 自分で言ってるにも関わらず、こんな子なんだ、と初めて知った。徐々に表情を明るくさせていく彼女に、俺も漸くほっと胸を撫で下ろす。気付けばテーブルの上には数々の惣菜が並び、厨房の方から店長が「ほらほら、泣いたら腹減んだろ」と言いながら顔を覗かせていた。その言葉を聞き、ふたりで顔を見合わせて笑いあう。

「涼ちゃんがいてくれて、ほんとによかった。ありがとう」

 今まで見たなかで、一番の笑顔だった。口許を緩めれば胸の奥でじわりと熱が湧きあがる。いとしい、愛しい。そんな感情が俺の中で産声を上げていた。すこしだけ俺も呑み、元気を取り戻した彼女と一緒に店を後にする。
 小雨が降り地面を濃い色へと変えていくなか、数歩先をフラフラと覚束ない足取りで歩く彼女。「危ないっスよ」注意すれど、聞こえているのか、いないのか。彼女はカラカラと笑いながら、足取りを止めない。
 不意に、ちりっとした痛みが襲い頭を押さえれば、思考の端で赤がチラついた。次いで、ぷつりと何かの切れる音。

 嫌な音が、響いていた。タイヤと地面が擦れ、悲鳴のような声を上げる。
 重い音が一瞬だけして、目の前でなにが起こったのか、上手く理解できない。
 気付いたときには、自分の喉が悲鳴をあげていた――


 びくりと身体が震えて、一瞬じぶんがいま何処にいるのか分からなくなる。荒くなる呼吸と早鐘を打つ鼓動。パニック状態の俺はざわざわとした人の声に気付き、漸く自分の置かれている状況を理解した。そうだ、今は。どうやら講義は終わったようで、周りを見渡せば皆一様に席を立って出口へ向かい歩き出している。それでも、逸る気持ちは落ち着きを取り戻せず――探さなきゃ、はやく彼女を見つけなきゃ。そんな考えばかりが俺の脳内をぐるぐると回っていた。

「やばー、雨降ってるって。傘持ってないんだけど」

 ふと、聞こえた声に視線を向ける。似てる、そう思った時にはもう、手を伸ばしていた。

▲▽▲


「黄瀬くんて全然、女心わかってない! さいってい!!」

 歯切れの悪い俺をキッと睨み付けると、女の子は激しい音をたてながら店を出て行く。またも空になった眼前の席を呆然と見つめる俺。やっぱり今回も、似てるだけじゃ駄目だったらしい。あの湧き上がる愛しさも、じわりと胸に感じる熱もなにも、なにもなかった。
 はあ、と嘆息を吐き出して折角だし何か食べて帰ろう、と前回は目さえ通せなかったメニュー表を広げる。すると、突然目の前にある空席が誰かに引かれていった。慌てて椅子にかかる華奢な手を辿れば――そこには渇望してやまなかった、あの人の姿。夢の中で見たまんまの彼女が、にこりと笑って「君、この前も女の子にフられてたよね? 大丈夫?」と声を掛けてくる。あまりにも衝撃的な出来事に驚きすぎた俺はただただ、金魚のように口を開閉させるだけ。まともに声帯も、震わせられない。

「なあに、イケメンの兄ちゃんナンパしてんだあ」
「そんなんじゃないですってば! いいからなんか飲み物もってきてくださいよ!」

 店員にからかわれながら声を上げた彼女は「ここ、いい?」と、小さく尋ねてきた。出せない声の変わりにこくりと一度頭を振れば
、再びにこりと笑われる。これは現実? それとも、また夢の中? 戸惑う俺の目に「ラストオーダーでーす」と、置かれるグラス。思わず変な声が洩れてしまい、慌てて向かいの彼女を見遣った。「おごりだから、遠慮せずどうぞ」メニュー表を向けながら、ふにゃりと微笑まれぐっと息が詰まる。置かれたグラスの中身は夢の中で俺が最初に頼む、シャンディ・ガフ。

「ほら、ぱーっと呑んで嫌なことなんて忘れちゃえ」

 彼女の言葉に視界がゆらゆらと揺れていき、じわりじわりと熱が込み上げてきた。泣かせた! と、からかう従業員の声と慌てる彼女の声。鼓膜を震わせるそれらを聞きながら、俺は小さく呟く。――やっと、やっと見つけた。

「もう、絶対に離れたりなんてしないっスから」


赤 い 糸 と 晩 酌
愛人”様提出
テーマ:泣き顔 (13.11.10