TEXT 01 | ナノ
 罠をはってただじっと、待てばいい。捕食者と云うものはそういうものだ。

 背の高い建物が連なる路地から見上げた空は、まるで切り取られたキャンパスのようだと毎度思う。絵の具がぶちまけられたように澄んだ青が一面に広がっていた。こんな日は絶好の洗濯日和だろう。通り過ぎる家々には色とりどりの洗濯物が干され、風に揺れているのが目に留まる。
 かくゆう俺もチャリに跨りビニール袋を引っ提げながら、近所のコインランドリーへ走らせていた。そよそよと頬を掠めていく風は天気に相俟って心地いい。
 車輪が道路の凹凸に差し掛かるたびにじゃらじゃらと音をたてる、ポケットの小銭。思わず洩れ出る鼻歌は、愛用のipodから流れるリズムを追いかける。「あーきもちー、」自然と俺の口から言葉がこぼれた。目的地は、もう眼前に迫っている――

 あそこのコインランドリーは少し変わってる、と思う。幾つものテナントが入る雑居ビルが多いなか、唯一ビルの全てを所有していて、屋上はその洗濯をしている人達が自由に使うことが出来るのだ。決して高い建物ではなかったけど、独り身でやっすいアパートに住んでる奴にとっては実に有難い。
 乾燥機がついた洗濯機にも関わらず、天気のいい日は何人か干してる人もいるくらいで。俺はと云えば、洗濯中にそこで雑誌を広げながら過ごすのが日課となっている。

 チャリを少し乱雑に止めてガラス窓から中を覗けば、今日はまだ先客がいないらしい。洗濯機は一台も稼働していなかった。「ラッキー!」なんて呟きながら、ガラス戸を引いて足を進める。
 ビニール袋へ突っ込まれた洗い物を中へいれ小銭を入れると、独特な音をさせて回りだす洗濯機。それを横目に持ってきた雑誌を抱え、外付き階段へ向かう扉に手を掛けた。カンカンカン、上っていく度に錆びた音をたてる階段は、この建物の年月を克明に表しているようでなんだか感慨深い。――今日も、貸切になってねえかなあ。
 そんな風に思考を巡らせていると曲調が変わり、誘うようなR&Bがイヤホンを通して俺の鼓膜を震わせる。最後の一段を踏みしめた。ひょいっと屋上を覗き込めばそこにはいつもの光景が――

 なんて、暢気な考えを浮かべていた俺の思考は、目の前で起こっている出来事にうまく機能を果たさない。

「ちょ、おい、何してんだよっ!」

 持っていた雑誌がばさりと落ちる音で漸く我に返り、大事なipodが落ちそうになるのも構わず全力で走ってそう叫けぶ。眼前には手摺から身を乗り出している女の子の姿。慌てて腕を掴んで自分の方へ引っ張れば、重心を失った小さな身体が倒れ込んできた。
 ――ま、まじで、心臓に悪すぎっしょ!
 尋常じゃないほど早鐘を打つ心臓。呼吸もままならない状態で、さぞ悲痛に歪んだ顔をしてんだろうな、と覗き込んだ先には予想外にきょとんと呆けた表情が見えた。「――っび、っくりしたあ。ひと、いたんだ…」心底おどろいたらしく、途切れ途切れに紡がれる言葉。
 ――いやいやいや、びっくりしたのはこっちだしね! ありえねえだろ、目の前で飛び降りとか。
 胸中でそう突っ込みをいれながら、はあと一拍、深呼吸をする。徐々に正常な思考回路が形成されていくのを感じつつ、傾いたままの女の子をきちんと立たせてやった。支えたときに触れた肩は女の子にしても、やけに細い。
 乱れた髪を耳に掛け、俺の方に向き直って顔を上げる女の子。「あれ、」俺の脳内で吐き出された言葉が、彼女の発した声と同じタイミングで被さる。何処かで見たことのある顔だと記憶がぐるぐる、回った。

「高尾くん、」
「名字さん…?」

 かちり。何かがハマった音が脳内で木霊すると同時に、自然とこぼれた名前。彼女は選択授業で隣に座っている、名字さんだった。俺にしては珍しくあまり言葉を交わした記憶がない。
 普段は大人しい雰囲気を漂わせてる彼女がまさか、こんな。「なんで、」気付けば口をついてでた疑問。そんな俺の問いかけに彼女はきょとんとして「え? なんでって、天気が良かったから?」と、何もなかったかのように返す。
 「へ?」「…ん?」噛み合わない会話。天気が良かったからなんて、普通に考えてもおかしすぎる理由に苦笑い。知り合いに会ってこんな状況を見られたから誤魔化したい、なんて思うのは普通かもしんないけど。「いやー、じゃなくてさ」俺にしては濁ってゆく語尾が煩わしかった。
 ――ああ、いつもならうまく立ち回れんのに。
 まっすぐに向けられた彼女の双眸は、どこまでも透き通っているようで。知らず俺の眉間に、力が入る。

「その、なんで飛び降りようとしてたのかな、ってさ」

 語尾にいくにあたって、どんどんと小さくなっていく声量。何とかそれを聞き取ったらしい名字さんは、眉根を寄せたあと口許に薄く弧を作って「誰が?」と口を開いた。――あ、困らせた。瞬時にそう理解して、謝罪の言葉が出そうになる。
 けれど、ここで謝れば余計に気まずい思いを彼女にさせることになるだろう。俺はぐっと言葉を飲み込んだ。変わらず澄んだ双眸がこちらを見つめている。あまりにも真直ぐなそれに居た堪れず視線を逸らしかければ、ふっと息の漏れる音が俺の耳朶を撫ぜた。
 鈴の鳴るような笑い声で「ふふ、違うよ」と否定する、名字さん。「空がね。あまりにも綺麗だったから、手を伸ばしたら届きそうだと思って。落ちるつもりなんてなかったよ」と続ける彼女に、安堵の溜息が洩れていく。
 綻ぶ彼女の表情に安心した俺は、一気に力が抜けたらしい。それに伴って、がしゃんと、何かが落ちる音が響き「あ、」と同時に声をハモらせた俺らは地面へと視線を向けた。

「あー! 俺のipodが…!」
「高尾くん、落ち込んでるとこ悪いんだけど…あっちにも何か落ちてるよ」
「うわー! 買ったばっかだってのに!」

 名字さんが指を差した方を視線で辿れば、雑誌が無残な姿で地面にふしている。慌てて駆け寄れば僅かに湿った泥がついて、ぐしゃぐしゃになっていた。あはは、至極おかしそうに名字さんが笑う。
 その笑顔はきらきら、と。陽光に反射してやけに俺の瞳(め)を引き付けた。それを見てるだけで、何だか俺まで笑みを誘われてしょうがない。だから、これ以上その場の雰囲気を壊さないために、そっと見ないふりを決め込んだ。

 ひらりと、風に浚われた彼女の服の袖から、ちらちらと腕に出来た大きな痣が覗いていたことを――


▲▽▲



「よ、名前ちゃん」
「高尾くん。DVD借りてきてくれたんだね」

 あれから、俺は彼女をよく目で追うようになった。何が、あんな原因を作ってしまったんだろうか。元々、困っている人を放っておけない性分で、真ちゃんには「余計なお世話だ」とよく言われる――けど、気になっちまうんだからしょうがない。
 選択授業のときはもちろん、廊下ですれ違ったり、購買で見かけたときは常に彼女へ声を掛けた。そうすれば、彼女の方も少しずつ俺に心を開きはじめてくれる。気付けば一時間も彼女と話していた、なんてことはざらにおこった。今まで言葉を交わさなかったのがまるで嘘みたいに、俺達は趣味があったのだ。
 音楽の話をすれば「これ! 私も気になってたの。今度、貸してくれる?」ってことが多くて、次第に彼女との距離は縮まっていくばかり。今までも、稀に“よく趣味が合う”ことはなくもなかった。けれど、大体は好意を寄せて近付いてくる女の子が、無理して俺に話を合わせてくれてるだけで。話がこうも弾んだことはない。

 少しずつ、少しずつ、彼女と過ごす時間が増えていく。それでも、悪い気はしなかった。俺は当初の目的などすっかり忘れて、純粋に名前ちゃんと居ることを楽しみはじめている。だから、

「おじゃましまーす」
「どうぞー」

 にっこり笑って俺を部屋へと迎え入れる、彼女。午前練を終えてからいそいそと帰り支度をする俺は、真ちゃんから異様に見えたのかもしれない。不審な眼差しを向けられて一瞬、動きを止めた。「どーした?」訊けば、今日の俺は占い最下位。
 “余計なお世話をやくと身を滅ぼす”と何とも辛辣な結果だったようで「気を付けろ」と再三(さいさん)念を押されてしまう。――余計なお世話って、もうそんな感じじゃねえしな。俺と名前ちゃん。

 彼女に促されるままソファに座れば、肩が触れそうな距離にどきりと心臓が跳ねる。「これ、面白いって話題になったやつだ」とレンタルDVDを漁る彼女は愉しげに表情を綻ばせた。――あれ? 前にもこんなことあった気がする。
 不意に引っかかる、記憶。目の前で笑う名前ちゃんに誰かの顔が重なってちらちらと、ぶれる。――誰だっけ?
 思い出そうと四散していく意識のなか「たかおくん?」と、怪訝に名前を呼ばれてはっとなった。何してんだ、おれ。「大丈夫? たのしく、ないかな…」眼前には不安そうな表情の彼女。俺は慌てて、弁解するように言葉を紡ぐ。
 眸の奥をじっと見つめながら「ほんと?」彼女がそう呟いた。お互いの顔の距離がぐっと近づいて、彼女の双眸に俺の顔が映りこむ。どくりどくりと、高鳴っていく鼓動に抗えない。俺はそのまま、そっと彼女に唇を重ねた。
 いいなと思い始めていた女の子とこんな状況になって、今更とめられるわけがない。ソファへ縺れ込んで覆いかぶさった彼女の身体は、思った以上に華奢でまた俺の心臓がどきりと跳ねる。その際に触れた腕にびくりと、彼女が肩を竦めた。

「あっ!いたいから、そこは、触らないで…」
「わりっ、」

 反射的に目を向けたそこにはあの日と同じように鎮座する、青痣。痛々しいそこに、俺が彼女を守らなきゃなんて気持ちが沸々とこみ上げてくる。ちらりと視界に入る僅かに汚れた袖。目に留まったものの、眼前の状況に急かされて俺はそのまま、誤魔化した。


▲▽▲



 昼休みにパックジュースを買いに廊下を歩いていれば、先の方で二人の女の子が談笑しているのが見える。眼を凝らさなくても、一人はさいきん付き合い始めた愛しの彼女様。もう一人は――いつもは見ない顔だった。
 そこそこ距離があるためか、向こうは俺に気付いていないようで変わらず続いていく会話。「わたしね、さいきん“アレ”が来なくて…」突然、深刻そうな表情をみせた名前ちゃんが友達にそう告げる。
 ぐわんと、頭の中が大きく揺れた。――え? “アレ”って? 俺は自分の耳を疑った。「え? もしかして“ニンシン”したの?」彼女の友達も同じように深刻な表情をつくってそう返す。――“ニンシン”? 上手く会話が理解できない。

「あの、高尾くんが…?」

 否、俺はあのときちゃんとしたはずだ。彼女が持っているからと、受け取っ、て――あれ?

 彼女の友達がこちらへ顔を向けたと同時に、あのときのように脳内でかちりと、音がした。彼女に重なってブレていた顔が鮮明によみがえる。彼女の隣に立つ“その女の子”だった、あのとき記憶に引っかかったのは。
 彼氏に暴力を振るわれ、精神的に弱っていたその子へ俺は持ち前の性格で近付き仲良くなった。けれど、好意を向けられてその気がなかった俺はあっさりとその子をフったのだ。
 大丈夫だなんて言っていたその子は、それから数日学校を休んで――

 ぐらり、すべての景色が歪んで見えるような錯覚に陥る。窓から廊下に差し込んでいた陽光は、まるで色を失ってしまったかのように、感じることができない。「た か お く ん」彼女の口から紡がれる声が、スローモーションのようにわんわんと脳内に木霊した。
 ――あれ、なんで、あのとき名前ちゃんは洗濯物もなにも持ってなかったんだ?
 ――あれ、なんで、あのとき名前ちゃんは服の袖を汚していたんだ?

 ――あれ、なんで、なんで、なんで。限りなく続く疑問、ぎもん、ぎもん。

 彼女がにっこりと口に弧を描いてこちらにやってくる。俺にはまるで舌なめずりをしているように見えた。
 抜け出せない、逃げだせない、


絶 望
アストロノート”様提出
テーマ:感情 (13.07.13