TEXT 01 | ナノ
 いつだってそうだ。大事なことに限って、気付くことができない。
 すべて取り返しがつかなくなってから、漸く気付くことが出来る自らに遅すぎだろうと、自嘲気味に笑った。


 不意に顔を上げて見据えた光景に、思わず洩れ出てしまった「あ、」と云う間抜けな声。よりによって何故こんなときに出かけてしまったのだろうか、と名前は持っていたコンビニの袋を握りしめる。がさりと、乾いた音が真直ぐ伸びる廊下に響いた。
 反応するようにこちらに向けられた二つの双眸。――なんで、声なんか出したんだろう。
 そう、名前が後悔したところでこの現状が変わるわけでもない。眼前に立った男はいつもと変わらない、へらりと気の抜けるような笑顔を湛えて「こんにちわ」と告げる。
 呼応するように廊下の電球がちかちかと、明滅をし始めた。大ぶりなピアスが光に反射して、名前に向けられるもうひとつの双眸と同じようにギラギラと輝いている。――ああ、不快極まりない。
 名前は視線を自らの足元へ向けた。可愛げのないサンダルがくすくすと、自分を嘲笑っているようだった。蚊の鳴くような声で返した彼女の「こんにちわ」は、果たして彼らに届いただろうか。
 そんなものを気にする余裕もない名前は、足早に自宅の玄関に駆け寄ると鍵を乱暴に取り出して扉を開ける。「なあに、あの女?」閉まり行く扉の隙間から、響く猫なで声。男の返答を聞く前にノブを無理矢理ひいて遮断した。
 意図せず他人と共有された世界から漸く隔離された彼女は、ずるりと四肢の力を抜いて扉に寄りかかる。足元は小刻みに震え、限界だと悲鳴を上げていた。
 もう、名前をかき乱すモノはそこに存在しない。それなのに、彼女の耳朶にはいつまでも女の声が纏わりつく。羽織っていたカーディガンのポケットを探れば、携帯が示した時刻は午後九時を回っていた。
 ――会えなくても、いいから。声だけでも。そうして、呼び出された番号を確認すると通話ボタンを押す。数回、無機質な機械音が鼓膜を震わせ名前はぎゅっと携帯を握りしめた。ぷつりとそれが途絶えれば「…あー、んだよ」掠れたバリトンが内耳を撫でる。

「…っ、寝てた?」
「ん、――どうした?」
「あ、おみね。青峰、ごめっ」
「……いいから、あー、三十分待ってろ」

 その言葉を最後に会話は終わりを告げ、再び無機質な機械音だけが名前の鼓膜を震わせた。視線を向けた先は自室だというのに、得体の知れない空間に居るようで居心地が悪い。じわり、じわり。暗闇が名前を浸食しようと迫っているように感じる。
 彼女は耐え切れずに膝を抱え、顔を伏せた。壁一枚隔てた向こうで、何が起きているかなど想像したくもない。それなのに、鮮やかな黄色が思考の端でチラついている。
 彼女にはあまりにも眩しすぎる、琥珀色の双眸が意識の片隅で細められた――


△▼△



 名前と黄瀬は「こんにちわ」だなんて、他人行儀な挨拶を交わすような仲では決してなかった。否、いつだってお互いの視界に映り込むほどの関係性を持っている、と黄瀬は自負している。幼馴染。世間一般ではそう呼ばれる関係だろう。
 幼少期に知り合った二人は、お互いを「涼太」「名前」と呼び合った。その時までは、ただ隣で笑い合っていても何も支障など起こらなかったはずなのに、思春期に入った彼らを取り巻いたのは棘のある眼差しだった。
 異性を意識し出す年頃は、実に過敏で難しい。男女と云う異なる者同士が距離を近づけるだけで、周りは鋭く神経を尖らせる。やれ、誰が誰と付き合っただとか、別れただとか、そんな話ばかりが二人を取り巻いた。

 その頃から、モデルの仕事を始めた黄瀬は周りからの視線や意識に殊更、敏感に反応するようになる。「名字さん、」呼び方を意識して変え、二人の間にあった距離を遠ざけた。その度に、名前は困ったような表情を浮かべる。
 それを見てちりりと何処かが焦げ付くのを、彼は見ないふりで誤魔化した。決して赤の他人ではない人間が傷つくのを見て、居た堪れないわけがない。そう思いながら黄瀬は正体のわからないこの感情をむりやり結論付ける。
 ――これは、あんな感情と同じじゃない、と。
 ちらりと、此方へ向けられる双眸がいつからか、熱を帯び始めていたことにも彼は気づいていた。気付いていて――業と、無視をしたのだ。黄瀬は付き合っただの、別れただの、そんなくだらない関係に名前と堕ちるつもりなど微塵もない。
 些細なことで簡単に壊れてしまう。そんなものなど彼女との間には必要ないと彼は思っている。だから、あの日、黄瀬は自分という存在を名前に、より刻み付けてやったのだ。

「名前…」

 彼女の名前を呼んだのは、紛れもなく黄瀬の声――ではなく、名前の友人の声。彼女が自分に好意を抱いていると、わかっていながら黄瀬は名前の友人に手を出した。乱れた服装で男女が縺れ込んでいたら、想像することはひとつ。
 黄瀬は自室のドアに立ち竦む名前を見詰め、悟られないようにやりと口端を上げる。「いま、いいとこなんで帰ってくんないっスか?」冷めた声色で黄瀬がそう言ってやれば、今まで馬鹿みたいに熱を帯びていた名前の双眸がさっと、拒絶の色を孕んだ。

「ごめ、なさ…」
「謝る暇あるなら、さっさと出てってくんない?」

 じわりと滲んだ虹彩がドアに遮られて消えていく。感情に任せてたてられた階下から響く慌ただしい音。ベッド脇の窓から覗き込めば、縺れるようにして必死に走っていく名前の姿が見えた。「きせ、くん…?」眼下の女が不安そうに彼へ声を掛ける。
 黄瀬はそんな女に冷徹な視線を送った。「なに? なんか用っスか?」彼のあまりの変貌ぶりに女はひゅっと喉を鳴らす。黄瀬が向ける視線は、まるで無機物でもみるようなそれだった。興味などない。そう瞳だけで物語っている。「親友にこんなとこ見られて、まだそこに居るつもりなんスか?」はっ、と蔑むような笑みが黄瀬から零れた。
 いま、自分の眼前にいる人は一体だれだろう。女がそう思うほど普段の黄瀬は存在しない。「あんた馬鹿? 言ってる意味、分かってる? 早く消えろよ、名前の前から」彼の口から放たれた言葉は鋭く女に突き刺さる。
 ――知らないわけがない。名前が眼下にいる女に影で何を言われていたのか、を。黄瀬は睨み付けるように、もう一度同じ言葉を女に向けて突き刺した。

 次の日、黄瀬は珍しく名前のことを呼び出す。「名字さん。ちょっといい?」彼の予想外の行動に名前はびくりと肩を竦ませた。周りからは、変わらず鋭い視線が二人へ向けられる。そんな視線をくだらないと、一瞥する黄瀬。
 それでも、名前が晒される環境を黄瀬は変えようと思わない。余所余所しい距離感を保ったまま、二人は教室を後にした。人気のない階段下。黄瀬は周りに誰もいないことを確認して、悲痛な表情を作りながら口を開く。

「きのうは、その、ごめん…」
「っ、ううん……」
「名前が来るってわかってたのに、あの子が押しかけてきちゃって。断りきれなかったんスよ」
「そ、そっか……」
「――あんなこと言うつもりなかった。でも、周りに知れたらって、ほんと、ごめん、」

 縋るように手を差し伸べて、黄瀬は彼女に向け「俺のこと、お願いだから、嫌いにならないで…」その琥珀色の双眸を細める。彼女が向けた眸には、もう熱などと云う生易しいものは孕んでいない。「嫌いになんて、ならないよ」拒絶と渇望、相反する二つが鎮座していた。


△▼△



 ぐらり。手を掛けた扉から青峰の方へ“なにか”が倒れてきたのに気づき、彼は慌てて手を差し伸べる。案の定、その正体を確かめなくとも彼には“なにか”など解りきっていた。「寄りかかんな。つってるだろ、」呆れたように溜息を零して名前を部屋の中へ押しやると「ごめん…」か細い声が返ってくる。――あやまんなら、すんじゃねえよ。胸中で彼はそう呟いた。
 これも、いつものことだ。青峰は名前を無理矢理だきかかえると、乱暴に彼女と自分の靴を脱ぎ捨てる。がさり、放られたサンダルにぶつかり、コンビニの袋が音をたてた。彼はそれに視線を向けて、空いた片手に引っ掛ける。

「これ食うのか?」
「……」
「冷蔵庫いれとくぞ、」

 頭(かぶり)を振るだけで名前からの返事は返ってこない。袋の中を覗けば、コンビニで売られているスイーツが原型を留めきれず崩れていた。よっぽど動揺したのだろう。袋の端が少しだけ擦り切れているのを見て、彼は眉間に皺を寄せる。
 開けられた一人用の小振りな冷蔵庫は、相変わらず物が入っていたためしがない。本当にここで生活してるのかと疑いたくなるほどに。青峰はそれを確認して、乱雑に袋を投げ入れた。抱えられた家の主(あるじ)からは、変わらず何の返答もない。
 そのまま、リビング続きになっている寝室に歩みを進め名前をどさりとベッドへ放る。呻くでもなく、泣くでもなく、流れた髪に隠れた彼女の表情は、青峰から窺うことが出来ない。――いつもこうだ。と、青峰は思う。
 着てきたライダースジャケットがごわごわと煩わしげに、彼を急かした。「名前…」ベッド脇にそれを投げ、彼女の上に覆いかぶさる。リビングから洩れた明かりが名前に青峰の影を刻んだ。

「あ、おみね…」
「忘れろ。見たこと全部、忘れろ」

 そう呟いた彼は、名前の口許へ顔を寄せる。それに応えるように彼女はゆっくりと、目蓋を閉じた。
 彼――青峰と名前の出会いは何処にでもあるそれと、何ら変わりはしなかった。それなのに、なぜ間違ってしまったのだろうか。二人が形成するのは、捻じ曲がった歪な輪。
 それまで、黄瀬の幼馴染だという名前は青峰にとって、何処にでもいる女とさして変わりはしなかった。とくべつ整った容姿をしているわけでも、飛びぬけて何かに長けているわけでもない。ごくごく一般的な女。
 そういった認識しか名前に持っていなかった青峰はあの日、偶然見かけてしまう――余所余所しい態度しかとっていなかったあの黄瀬が、彼女にしていたことを。青峰は一瞬、じぶんの眼を疑った。
 人気のない階段下で、黄瀬が名前に縋り付くように懇願している。嫌わないでくれ、と。それを目の当たりにした青峰は、心中にどろりと得体の知れない感情が湧きあがってくるのを感じた。「なんだ、あれ……」思わず洩れた言葉は、優越感を孕んでいる。
 いつも飄々としていて、女には事欠かないと自負している黄瀬が、一人の女に必死になっている姿。それは青峰にとってこの上なく興味をひいた。「そんなだから、青峰っちはモテないんスよ」黄瀬がそう言っていたことを思い出して、青峰はひくりと口端を吊り上げる。
 ――お前だって、ひでえじゃねえか。普段は冷たい態度を取っておきながら、自分は悪くないだなんてよく言えたものだ、と。それから、青峰は名前を気に掛けるようになった。
 最初は、黄瀬をあそこまで動揺させる存在がどんな奴なのか、と云う興味心。しかし、それが大きな間違いだったと後に青峰は思い知ることとなる。端的に云えば、彼女は黄瀬を“動揺させる存在”ではなかった。
 むしろ、いいように動揺させられていたのは名前の方だったのだ。

「あおみねくん…」
「お前、なにしてんの」

 部室の前で、彼女はぼうっと膝を抱えて蹲っていた。隔てられた扉の向こうに人の気配を感じ、青峰は「黄瀬でも待ってんのか」と彼女に尋ねる。けれど、返ってきた答えは頭(かぶり)を振るだけのもの。
 怪訝な表情で部室の扉に手を掛けた青峰は名前の「だめっ!」という大声で、それ以上動くことができなかった。「なんで、」中から僅かに漏れ聞こえる男女の声。青峰はそれを聞いて、身体の内側で熱が一気に駆け上がるのを感じる。
 気付いた時には名前の腕を引っ張って、屋上まで彼女を連れてきていた。

「おまえ、」
「いつもなの! どうしてかわかんないけど、」

 名前のその言葉を聞いて青峰は直感的に悟る。――あれは、業とだ。業とこいつに聞かせるようにしているのだ、と。それは本当に無意識だった。彼は名前に、こう提案していた。「わかんねえなら、試してみるか?」何を言われたのか理解できなかったのだろう。瞠目した名前の表情が青峰の視界に映る。

「ヤってみりゃ、お前もわかんじゃねえの」
「……」

 彼女は逡巡するも、弱々しく首肯してみせた。「見たことは全部忘れろよ、」俺とのこと覚えてても嫌だろ、そう続けて青峰は携帯でメール作成画面を起動させる。送信先はもちろん、黄瀬だった。
 ちゃんと送信されたのを名前に確認させ、彼は彼女の唇へ自分のそれを押し付ける。――思春期ならヤれりゃなんだっていいに決まってる。そう自分の行動を正当化した。


△▼△



 何もかもが遅すぎた。そう、理解して胸の奥がずきりと悲鳴を上げる。「落ち着いたか?」そう言って、名前に向けて細められた双眸は琥珀色ではない。対照的な群青色、だった。
 こんな風に関係が始まらなければ、素直に自分の気持ちを言えただろうか。名前は未だに、ぼんやりと広がる微睡みの中でそんなことを思う。青峰の言う「忘れろ」は最近、実行されることがなくなった。

「うん…」
「無理すんな。見送んなくていいから、」

 枕に沈められた名前の頭を、ゆっくりとした手付きで撫でる青峰。尾を引くような優しい愛撫は、彼女にとって都合のいい勘違いをしそうになってしまう。「じゃあな、」ぱたりと閉じられた扉。時刻はすでに、てっぺんを差そうかという頃だ。

 名前と隔てられた世界の向こうで、青峰はずるりと扉に寄り掛かる。詰めていた息が漸く吐き出される時だった。ずきりずきりと、骨の軋むような痛みが彼を襲う。「名前…」最中に呼ぶことのない名前。呼んでしまえば自分の中から、感情が溢れてしまいそうになると青峰はわかっていた。もう、思春期だからでは済まされない。
 彼らは大学生になり、そろそろ成人を迎える歳になる。いつまでも、こんなことを続けていられるほど子供ではなくなった。――けれど、突き放すことも断ち切ることも離れることも、出来ない。
 睨めつけた真横の扉の向こうで、黄瀬が何を思っているのかなど、青峰には到底りかいできなかった。

 倦怠感を残す身体を引きずってベランダに出れば、黄瀬の眼下にはちょうどバイクに跨ろうとしている青峰が見える。真横のベランダには黄瀬と同じように、気怠さを纏った名前がブランケットに包まって真下を眺めていた。

「元気っスね。青峰っちも、」
「……黄瀬くん」
「他人行儀やめてくんない? もう誰もいないんだから、」
「――女の子こんな時間に一人で帰すなんて、サイテーだよ。涼太」
「こんな時間に男呼び出す名前には言われたくねえわ」

 青峰がメットを被っていても、黄瀬は気付いている。今にも射殺さんとする、彼の視線に。
 黄瀬はそれを受けながら、隣で愛おしそうに眼下を見詰める名前に熱を孕んだ視線を向けた。それらは、決して交わることがない。「ほんと、馬鹿っスねー。俺らって……」ぽつりと、呟かれた憂いを含む声。

 じわりじわりと、視界が滲んでいく。夜闇だけが知っていた。
 少し離れたベランダから今日も“三つの雨”が降りそそいだことを。


後悔はいつも夜の向こう
記憶”様提出
テーマ:涙 (13.07.06