※おが→ふる前提、微R注意
いいよ。目尻と口角を近づけるイメージの、上手い微笑みの作り方を思いだしながら、ただ一言を口にした。私の上で辛そうに汗をかいていた男は、泣きそうな顔をして、一言、ごめんな、と謝って。私ではない人の名前を呼んで、律動を速めた。
寄り添いながら、何も言わずに三分ほど休んだ男鹿が、落ちていたシーツを引き上げて私に掛けてくれる。行為中はまるで決定的な証拠を隠すかのように身体に掛けられていたからだろう、真っ白いそのシーツはすこし湿っていた。口元まで引き上げて寝転がったまま、ベッドに座って後始末をする男鹿の背中を見つめる。
男鹿の背中は広くて、喧嘩では決してキズのつかないそこに無数のキズをつけているのは私だ。力をいれる必要がなくても、わざとツメを立てている。好きなひとに自分の痕跡が残るように。
きっと男鹿もそんな私の策略に気付いている。気付いていて、許しているのだ。行為中に相手以外の名前を呼ぶことを許す私と同じ。わたしたちはお互いの後ろめたいことを許しあいながら、身体を重ねている。私は純粋でも寛容でもないし、男鹿には、私よりも好きな人がいる。
背中についた爪痕を、指先でそっとなぞる。振り向いた男鹿と目が合うと、僅か数秒で唇が重なった。そのまま流れるように組み敷かれて、ごつごつした大きな掌が身体に這いはじめる。始まりの時が、私は好きだ。この時は少なくとも、誰とも重ねず、私だけを求めてくれるから。
乳房を舌で転がした男鹿を抱え込むように抱きしめると、不意打ちで苦しかったのかバタバタと抵抗をされた。それほどに胸はないのに。まあ男鹿の想う人に比べたら、女であるぶん膨らんではいるけれど。
「っぷは、何すんだてめー」
「幸せな死に方をさせてあげようかと」
「ない胸で窒息死とか地獄だな」
「それは言い過ぎだぜおやっさん」
「誰がおやっさんだ」
私の上で、男鹿が苦く笑う。わたしも微笑みを浮かべれば、そこはまるで幸せな男女の営みの場。沈み込んでくる男鹿をやわらかく受け止めて身体を横に倒す。すこしだけ自分の身体を下にずらせば、男鹿がちょうど胸のあたりで抱きしめてくれた。固い胸板の奥で、心臓が一定のリズムを刻んでいる。大きな掌が私の髪を撫でる。三分の沈黙。ごめんな、と謝る声。
「髪、銀色だったらよかったね。上手いこと錯覚できたかも」
「…奏」
「目も、真ん丸でさ、胸もまったく無くて」
「奏」
「ばか、何で謝るの。いいって言ったでしょ。私は男鹿とこうしていられるだけで、」
「奏」
まるで、行為中に呼べなかった分を取り戻すかのように。男鹿の低く優しい声が私の名前を何度も何度も呼ぶ。そのせいで私の口は勝手に活動しはじめてしまう。男鹿はばかだ。いまさら何度名前を呼ばれても、あのとき呼ばれなければ意味がない。もっと切羽詰まったときに、もっと嬉しいときに、呼んでくれなければ意味がない。
泣き叫びたい気持ちとは裏腹に口から出てくるのは、どこぞの物分かりのいい女の子かと吐き気を催すほど一途な言葉。誰かと重ねて抱かれて、いいわけがない。男鹿のもっと深い部分が欲しい。あのひとの知っている男鹿を全部ほしい。
脳に渦巻く黒いモヤモヤしたものをすべて口に出してしまったら、男鹿はあのひとの元へ行けるのだろうか。私のプライドが吹っ切れてしまえば、男鹿も吹っ切りに行けるのだろうか。たとえ叶わなくとも。
「ごめんな、奏」
「ばか」
銀色ではない髪を男鹿がひどく優しく撫でる。その手の触れたところから色が抜けていってしまえばと、切に願った。
(それで、あのひとに成れるわけではないけれど)
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