テストの解答欄を一段違いで埋めてしまうより。お気に入りの靴のヒールが溝に嵌まって抜けなくなるより。席替えで真ん中の列の一番前の席になるより。最悪な運命が今、罪無き女子高生の身にざあざあと降りかかっている。
薄汚れたアパートの階段の前で立ち尽くし、溜め息を吐く。真っ黒いものが辺りに満ちた気がした。築年数はいったいどれくらいなのか。いまにも崩れおちそうなアパートは、石矢魔ハイツというらしい。なにがハイツだ。洒落た名前を付けたかっただけなのが丸解りである。
握りしめていたせいで少し湿った紙を広げて、確認をする。間違っていればよかったのに。ヤツの住家は確かにここらしい。石矢魔ハイツ、201号室。
◇
高校の入学祝いにと母が置いていった懐中時計を開き、時間を見る。二十五分。わたしがこのアパートに着いて、現実逃避を始めてから二十五分。けっこう経ったな。いつのまに。
これだけ逃避に時間を費やしておいて言えたことでもないけれど、ちゃんと理解してはいる。いくら自分の運命を呪ったところで何が変わるワケでもないこと。こちとら産まれたときから石矢魔に居るのだ。これが運命。これが現実。呪ってどうする。
息も吸うまいと無駄に胸を張って階段を上がり、辿り着いた201号室。ドアを叩くと、木製の古びた板のようなそれは軋んだ音を立てて開き、中からは非常に気まずそうな表情をした見知らぬ男が現れた。
「………」
「……えーと」
「……」
「よ、ようこそ!疲れたでしょー上がって上がって」
「…叔父さん、突然変異でもした?」
「………」
非常に無理のある明るさで私を出迎えたその男の髪は銀色。全体的に色素は薄く、筋肉はついていなさそうで、目は丸い。どこからどう見ても、私の記憶のなかに居座っている叔父の姿とは掛け離れている。お金はないだろうし、全身整形よりも突然変異の方がまだ納得がゆくだろう。
絶望したような表情の彼に無言で力無く腕を引かれ、しかたなく中に入る。万が一なにかされたとしても、これくらいの男ならば石矢魔女子じゃなくても簡単に捻り潰せるだろう。
部屋のなかまでは入らず狭い玄関に立っていると、フローリングに正座をした銀髪の人が頭を下げた。おお、土下座。祖父以外がするのは初めて見た。改めて祖父の土下座の群を抜く美しさを理解。
「…いいですよ、別に。どーせ一ヶ月とはいえ姪を預かるなんて面倒くさいとか言って逃げたんでしょう」
「いや、あの…」
「で、お兄さんは人質?受付?」
「…受付だと思いたい……」
土下座をしたままの銀色の頭に鞄を置いて質問をする。初対面の、しかも年上の男性をこんなに見下してしまえる自分にすこしばかり驚いたけれど、あまり気にしないことにした。反撃をしてくる様子もないし、うら若き女子高生のすることだ。たぶん問題ないだろう。
それはともかくとして。そうか、叔父は逃げたのか。予想はしていたから、まったくもって構わないけれど。最後に銀髪を床に埋めて、踵を返しドアノブに手をかけると、後ろから慌てた声で引き止められた。
「大丈夫ですよ、泊めてくれそうな友達も何人か居ますし。ダメならネカフェ行くくらいのお金はあるから」
「それでもダメ!待ってて、絶対オレが責任持って連れ戻すから」
とにかく上がって、待ってて!!そう意気込む銀髪の気迫に圧されたワケではないけれど、しかたなくドアノブを離し道を開ける。私の隣をすり抜けてドアを開けたお兄さんは、またたくまにに悲鳴を上げて背中から玄関に戻ってきた。
久しぶりに聞く絶妙な低さの声。私より背は高いらしい銀髪の向こうに、ヤツの鋭い目が見えた。
「何だよ古市、待ってろっつったろ」
「お、オマエが何も言わずに出てくからじゃねーか!まじで放棄すんのかと思ったわ!!」
「しねーよ。つかなんでオマエが泣きそうになって…あ?」
相変わらず外国人が意味も解らず着るような謎文字Tシャツに、くたびれたジーンズ。黒く跳ねた髪、たくましい身体、切れ長の目。間違いなくお母さんの弟。こちらをようやく視認した叔父は、銀髪を押し退け、私と肩がぶつかるほどの近さを抜けて部屋に入っていった。
買い物袋を提げた、半袖からさらされた腕は細いのに筋肉が付いていて、相変わらず引き締まっている。
「古市ー、肉買ってきたから揚げろ」
「いや、揚げろじゃねーよオマエ。芋ねえしコロッケ作れねえぞ」
「叔父さん」
呼ばれるがままに小走りで台所へ向かった銀髪の後をついてゆくようなかたちで近付き、斜め後ろから叔父に話しかける。鋭い目付き、焼けた肌、鍛え上げられた身体。そして何より、硬そうな拳。
この拳で。叔父は私の大切なひとを傷付けたのだ。
「わたしはあなたのことが大嫌いなのでたいへん不本意ですけれど、これから一ヶ月、お世話になります」
「……相変わらずかわいくねーやつ」
「うるさいだまれ」
「おふうっ!?何でオレ!?」
「なんとなく」
石矢魔ハイツ201にて、一ヶ月。一ヶ月の辛抱だ。貴重な女子高生ライフのなかとはいえ、なんとかなるだろう。そう信じて、銀髪の鳩尾へガッツポーズを向けた。
121029