下駄箱に靴を押し込み、上履きの踵を潰したまま走る。もう疾うに生徒に満ちている教室からは朝のざわめきがもれ、対照的に廊下には眩しい太陽光が差し込んでいるほか、人影はなかった。
勢いよくドアを開け放ち、迷わずに教室の奥まで向かう。SHRが終わった直後の教室で、すれ違うクラスメイトたちがおはよーと微笑んでくれた。しかし今はそんな優しい彼女らにものんびりと挨拶を返している場合ではない。
「平介!」
「ん…?」
寝不足なのかお菓子も広げずに机に伏せていた彼を強引に揺り起こし、うすく開いた目の前にお得用で購入したキューブ型のチョコレートを両手一杯に差し出す。
「なに、くれるの?」
「確認したいことがあるのですが」
家から全速力で走ってきたせいで未だ休まらない心臓を押さえて、息を吐く。垂れ下がってきたうっとうしい髪を耳にかけ、やっとのことで顔を上げると平介は何の気ない表情でこちらの質問を待っていた。
頭のなかに鮮明に刻み込まれた記憶が、首筋に冷たい汗を伝わせる。心臓がうるさく痛んだ。
「おーい霞水〜、来たんなら雑談はあとにしてまずは遅刻した理由を」
「甘いもの、好きだよね?」
教壇から飛んでくる先生の忠告を遮って、問い掛ける。いままでは状況が飲み込めていなかったのだろう、ハァ?という鈴木の呆れた声と、楽しそうな佐藤の笑い声が聞こえてきた。
平介はすこしだけ、ほんのすこしだけ目を見開いて、こちらを見ている。
「夢をね、見たの。平介が、甘いもの好きじゃなくなっちゃう夢。前は好きだったけど、今はそうでもないって」
きらいではないけど、すきってわけでもないよ。平介に見せることだけを楽しみに持ってきたマフィンを差し出す自分に対してそう告げた彼との距離が、いっきに開いた気がした。
これは夢のなかで、あの平介が甘いものに関心を失うなんて、非現実に違いないと。わかってはいたのだけれど。それでも、どうしようもない不安が抑え切れなくなった。
平介が一番大好きだった、お菓子と同じように。自分もいつか、関心を持ってもらえなくなるのではないだろうかと。
不安で、不安で。
「ほんと、なにを言い出すのかと思ったらこの子は」
冷えた感触が優しく手首をつかみ、チョコレートを机上に空けさせる。力が抜けてしゃがみこむと、椅子に座る平介よりも目線が低くなった。チョコレートの包装を解きながら見下ろす彼に名前を呼ばれて、目を合わせる。
ぱくり。安くて甘いチョコレートを、ひとくち。
「すきだよ」
「…ほん、とに?」
「ホントに。というか、嫌いになるわけないでしょ」
「……興味なくなったり、しない?」
「しない」
「ぜったい?」
「うん、絶対」
大丈夫。いつまでだって、変わんないよ。
そう言って頭を撫でる平介の手つきが、以前あっくんにしていたものと同じに思えて。自分の発言のあまりの幼さにいまさらながら恥ずかしくなる。
それでも平介が断言してくれた言葉は嬉しくて、心の底から安堵できて。思わずへたり込むと、平介がおいしそうなマフィンをくれた。あまい匂い。
「しかし霞水も素っ頓狂だね〜!平介が甘いものを嫌いになったらそれこそ天変地異が起こるよ」
「佐藤は何にも解ってねえな」
「え?なに?鈴木、どういうこと?」
「おいそこのバカップル。特に霞水。先生に牙生える前に謝罪行った方がいいぞ」
「あ、うん。じゃあマフィン食べてから」
「いますぐ行け馬鹿。課題増えても知らねえぞ」
鈴木の忠告を無視してマフィンの紙をはがし、ぱくり。自然にほころんだ表情で平介をみると、とろり。わるい夢は、跡形もなく消えてしまった。
120916