魔法使いなのだ、と知った。発光と発火、沸騰する液体。それを見守る穏やかな双眸。一番前なのに一番に遠い端の席で、わたしは確信したのだ。あのひとは、間違いなく魔法使い。





 多種の発光をうつした写真の載った資料集から目を離して、降り続ける雨を追いかける。静かな校門には遣らずの雨にまんまと嵌められた人たちが思い思いの時間を過ごしていて、その人数は私が資料集を開きはじめたときより随分減っているように思えた。雨は、引っ切り無しに地面を叩いたまま。

 写真で見るどんなに芸術的な実験も、あの魔法には追いつかない。動きがあるかないか、それだけじゃない。あれはたしかに、魔法だったのだ。あの特別な時間をそんな非現実的な言葉でしか表せない自分の安価な頭には、ほとほと呆れるけれど。


「あれ、まだ帰ってなかったんスか?」


 乱暴な雨音に紛れ込むようにして聞こえた柔らかな声に、引かれるように頭を上げる。私が座る昇降口備え付けの小さなベンチの近くに、魔法使いがいる。白い腕に山ほどの書籍を抱えた、先生。

 彼は一言も発そうとしない私を怪訝に思う様子もなく、いつもの思い出すような口調で一生徒の名前を呼んだ。


「降ってますねえ」

「ええ、かなり」

「困りました、コレをゴミ捨て場にと思ったんですが」


 奇麗な血管の走る白い腕には進路関係の本やら生物の資料やらがたくさん抱えられていて、どうやらかなり張り切ったんだろうということが判った。雨はいつから降り出しただろうか。

 隣に置いていた鞄に資料集を仕舞って、立ち上がる。


「よろしければ、」

「差してくれるんスか?」

「……はい」


 ベンチに立て掛けておいた傘を差しだそうとすると、彼はすぐさま期待十分な問いを向けてくる。魔法使いは案外、調子のいい性格をしているのだ。

 背の高い先生に傘を差すのは予想外に簡単なことだった。彼はまるでちょうどいい高さを熟知しているように身を屈めてくれて、歩く早さもちょうどいいものだったから。やはり魔法使い、ただ者ではない。


「なんで傘持ってるのに帰らなかったんですか?」


 廃品を所定の場所に置きながら、先生が尋ねてくる。白衣の裾がしっとりと変色していて、雨から護りきれていなかったのだと私は心中で謝罪した。


「浦原先生を待ってたんです」

「…ほんとっスか?」

「うそです」

「………」


 止もうとしない雨は無邪気に二人の声を奪って、私が言ったことが彼に届かなかったのか、彼が言ったことが私に聞こえなかったのか、それともまた別なのか、わからない。私が傘を差して帰らなかった理由は、わざわざ説明できることでもない。

 とまる様子もなく、ひたすらに地面を叩く雨。なにか恨みでも持っているのだろうか。地面にもトタンにも、先生たちの車にも、誰かの傘にも。随分と感情に正直であることだ。

 分類をし終わった先生が戻ってきて、さりげなく私の隣に並ぶ。身体はかなり軽くなったようだ。捲ってあった袖を戻す彼を横目で見つめる。


「浦原先生、雨やませてくださいよ」

「いきなり何スか。やったことないですよそんなこと」


 できませんよ、と言わないのが先生らしい。やってみたらできるかもしれない。いかにも教育者らしいその考えは少し苦手だけれど、それが彼の考えとなった途端に私は無視ができなくなるのだ。だって魔法使いの信条を否定してみなさい、どんなことが起こるか、想像もしたくない。

 傘を伝った水滴が、地面の色を変える。穴が空いたみたいだ。落ちる雫が、穿つように。この雨も、どこかに穴を空けているのだろうか。

 たとえば、誰かの頭に。じっくりと入り込んで、すべてすべてを持ち去ってしまう。いつまでも、気付かせることはしないで。例え最期を過ぎても。


 絶えない雨の音と匂いと温度とにいっぺんに包まれながら、すこし上を向く。校門に居たときよりも近付いた街灯は、既にじりじりと鳴きはじめていた。予想通りだ。太陽がないから、いつもより早く点いたらしい。

 わたしより年をとっていそうな街灯があらわすこの色は、魔法使いが操ったあの色にすこしだけ似ている。他の何にも似ようとしないあの色に、ほんの、すこしだけ。これが、私が時間を待つ理由。間違っても魔法使い本人に話せることではない。


「帰るんスか?」


 満足したから帰ろうと傘を開くと、私よりもずっと上の方を眺めていた先生が訊ねてくる。私が動こうとしなかったせいで校舎に戻れなかったらしい。申し訳ない。


「この調子じゃ傘あってもあんまり意味無いですね」

「ですねぇ。ちょっとでも収まってくれたらいいんスけど」

「止ませて下さい。浦原先生ならできます」

「はは、やってみますか?」


 たとえば、指先から。魔法は煌々とした光を含んで、辺りを目まぐるしく染めていく。歓声すら上がらないほど見事なそれは、まさしく魔のもの。この世界から飛び出した万能の空間。

 それにいちどでも巻き込まれてしまえば、のがれることは成らなくなる。


 雨空に、まっすぐ向けられた指が一本。蜻蛉でも待っているかのように円を描いて黙り込む先生の指が、篭った空気を循環させる。魔法使いはどうやら術を選択中らしい。話し掛けて無意識に邪魔だと消されるようなことがあっては本末転倒だから、私も黙っておく。

 蜻蛉が止まらないまま、円が途切れる。天啓でも受けたかのように はっとして空を仰いだ彼が、じっとしていられない子供のように雨中へ足を踏み出した。慌てて傘を開こうとした手が、意識を失い停止する。


「…できるかもしれません」


 霞水サン、助手をお願いしてもいいですか?知の本能を擽られて仕方ないといったような口振りで話す彼の表情が、やけに明瞭に見える。踏み出した彼は私よりも車二台分ほど前に居て、豪雨のなかでは殆ど表情なんて読み取れなかったはずなのに。

 水分を含んだ風のせいか、すこしだけ目の奥に熱が集まってくる。それ含めすべてを嘘にしてしまいたくて、いちど強く目を瞑った。開ければすべてが錯覚になっていますようにと、願って。


「霞水サン?……あ、」


 底の無い黒い穴のあいた地面との境目で、茫然と立ちつくしたまま。願いが叶わなかったそんな私の苗字を呼んだ魔法使いは、実験の環境が変わっちゃいましたねぇ、と残念そうに嘘を吐いた。







(まぁでも実験はできますし…。ちょっとお付き合い願えませんか)



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