幸せって、背中が温かいってことだよな。この時間帯には頻繁にみられる脆弱な調子で檜佐木がそう呟いたとき、墨が半紙にじわりとしみた。どうしてくれるの、と顔も見ずに詰れば、そいつは何か嬉しいことでもあったのか、満足げに揺れて。
◇
かすかな声と共に身じろぎをした背後の温もりを、ぐいと押し返す。半分寝ぼけたまま纏わりつくように覗きこんできた檜佐木は、半紙に整然と並んだ文字を見て、あろうことか鼻で笑った。
「びっくりした、ムカデでも並べてんのかと思った」
「檜佐木くん目ェ開いてる?筆で手伝ってあげようか」
「遠慮してお、て、あっ!オマエ、今わざと付けたろ!」
「はは、似合う似合う。個性が出たね!」
眉間に黒子のような墨をつけた檜佐木がひととおり怒って焦って、最終的には溜め息を吐いて無防備に寄り掛かってくる。懲りないやつ。
百足呼ばわりをされた可哀相な文字たちを屑入れに放り込み、わずかに背にかかる重みを享受する。肉のつかない硬い背中と、たまにくすぐるツヤのない黒髪。
私がこの重みを知るのは、二週間に一日、この時間帯だけだ。そのサイクルが何によって決められているのかは、きっと誰も知らないだろう。私はもちろん、本人も知らない。しらなくていい。
趣味でもないのに頼っている書道には、ちっとも上達の兆しが見えない。
「お風呂入って落としてきたら?今ならすぐ落ちるだろうし」
「ねむい」
「いま寝てたでしょうが」
「ん、ねてたけど…」
ねみい。掠れた声でそうつぶやいて、ふたたび背中に寄り掛かる。鍛えられた腕が私に回されることはない。あの日からずっと。
しあわせ、だなんて。死に四方を囲まれ、名前さえも染められた私たちがたやすく定義していいものではない。死神でなくとも、きっと同じ。誰もが持つと云う幸せの粉は目に見えぬほど細かくて、微かな風にも瞬く間に散らされてしまう。
だからこそ、口にしてはならない。認めてしまってはならない。容赦のない悪戯風に、聞き付けられてしまうから。
その不文律を、この男が知らないはずがないのに。それなのに。
「じゃあせめて布団で寝なさい。押し入れに予備が入ってるから」
「ん…いい、オマエの背中で我慢する」
「おいこらまずは本人の許可をとれ」
「許可しねえだろ」
「当たり前」
不満げに欠伸をして立ち上がった檜佐木が、私の頭を撫でてゆく。特別な意味も込められていない、ただの癖だ。一ヶ月に一度、この時間だけの、檜佐木の癖。決まって私の部屋に来、決まって背で眠り、決まって、ほどけてゆく。
ばかみたいだ。
背中が、あたたかい。
(きっときみは知っているのだ)
120814
誕生日おめでとう、ひさぎ。