目覚まし時計が必要でなくなったということはイコール、日常にプラスエックスされたということだ。エックスイコール。米を掻き込みながらぼんやりと数式を作って、二階から響いてくる泣き声と叫び声を聞く。

 ぶすぷすと煙を出しながら階段を降りてきた たつが私の隣に崩れ落ちるように腰かける。その傍らで大人しくミルクを飲んでいるベルちゃんを抱くヒルダさんに朝の挨拶をすると、ベルちゃんを見つめた延長の優しい表情で挨拶を返してもらえた。いい日になりそうだ。

 隣で味噌汁をすすっているたつはいつのまに回復したのか、もう焦げていない。どういうことなのかはわからないけれど、きっとこれは大人の事情だから黙っておいたほうがいい。


「いい目覚まし時計だね」

「ほしいならやるぞ」

「ヒルダさんのモーニングコールならほしいけど」


 趣味がわるいとでも言いたげにこちらを睨みつけるたつの止まった箸から卵焼きを奪って、すばやく口に入れる。報復されるまえにごちそうさまをして、その場を去ることに成功した。連日の夜泣きで、どうやらあまり眠れていないらしい。たつは叫んだだけで追ってはこなかった。


 洗面所に寄り身だしなみを確かめてから、玄関でローファーを履く。まだ、朝は早いけれど。だれもいない学校は寝心地がいいから、行って損はないだろう。電車もこの時間なら空いている。

 エックスイコール。目覚まし時計がいらなくなってから、わたしの朝には余裕というものがひどく増えた。家を出るギリギリにまだ起きていないたつを叩き起こして、身だしなみを確かめる時間もないままにダッシュで満員電車に乗り込んでいた以前とは丸っきり違う日常。可愛い甥がいて、巨乳美人な姉?妹?がいて。余裕とは、いいものだ。

 ブロック塀のうえで気持ち良さそうに丸まっている猫に触ってみると、誰かに似て目つきのすこぶる悪いそのコに睨まれた。


「おい、」

「噂をすれば」

「は?」

「いやなんでもない。どしたの?」


 ベストタイミングで声をかけてきたたつはまだ寝間着姿で、履いているのはスリッパだし、おおよそ学校に行く格好ではない。まあこの双子の兄の通う学校は私の通う学校とは違い電車を使わなくても行ける距離だから、まだ一時間以上は余裕があるのだけれど。

 某隣人物語に出てくるカンタのように差し出された袋を、反射的に受け取る。あ、お弁当だ。覗き込むと、脳天に衝撃があった。


「忘れてったろ。あとさっきの仕返し」

「いいった…たつってば案外ねちっこ、痛い!」

「うるせー。卵焼きの恨みは深いんだよ」

「わーかったわかった。明日は私の卵焼きひとつあげるから。許してくれい」

「…しょーがねぇな。みっつともで手を打ってやる」

「いやだからひとつと」

「みっつだ」

「ワンイズントイコールトュースリィ!オーケィ?」

「エヌジー!」


 エヌジーて。NGをングとか原始人みたいに読んではいないだけマシだけれど、いったい何の収録なのか。どうやら卵焼き三つの方向で満足したらしいたつはもうすでに後ろ姿になっている。

 しょうがない、明日は今日より早起きして自分で卵焼きを作ろう。三つには様々な調味料をたっぷり入れて。


 欠伸をしながら去っていくたつの頭のうえからこちらに手を振ってくれる可愛い甥っ子に手を振り返し、見えなくなると少しだけ走ってまた手を振る。双子の兄のことは除外しておくとして、なんと素晴らしきかな日常。目覚まし時計の仕事と交換ではあまりに割に合わなさすぎる。

 ずっと同じ塀のうえに寝ていた猫に懲りずに触って容赦なく引っかかれた手の甲の痛みなんて、もうどうだっていい。痛いけど。







(いっちばんのーりー…)
(おっはよーおがちゃん!)
(じゃなかった!手強いね梓さん…)



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