しとどに濡れそぼった身体は玄関の敷石をゆっくりと染め落としていった。薄かったはずの衣服の色は暗くなって、まるでそれは彼女の心を表しているように見えた。

 ただいま、と恥ずかしそうに言いながら、やあ降られちゃってねえ、と服を絞りながら、わらう彼女にほとんど飛びつくように抱きしめる。

 濡れちゃうよ。分かっているように彼女が言って、それでもわたしの身体はいまの状態を留めるばかり。氷のような彼女の手が私のうなじに触れ、おどかせなかったことに少しだけ落ち込んでからそっと頭に乗った。慎重に腕の力をつよめる。


 ねえきみは、知っていると思うけれど。わたしはひどく弱いから、きみがこんなふうになってしまうだけで怖くて怖くてたまらなくなるんだよ。どうにもできなくなるんだよ、きみが私の知らないどこかで灯を消してしまったらと考えるだけで。

 大きな話でも何でもない。きみがいなくなると、わたしの世界に生きるものたちはすべて、声も出せぬまま絶滅してしまうの。


 湿った身体がわずかに動いて、下のほうでガサリと音がする。聞き慣れた笑い声は、すこしだけわざとらしくて、離したくなくなる。離してあげなきゃと思う。

 腕をゆるめると、すぐさま鼻先をくっつけてきた彼女がへへーと嬉しそうに笑った。


「甘いもの、たっぷり買ってきちゃいましたー!」

「…ふとりますよ、井上さん。イノシシさんになっても知りませんからね」

「あっ、それ新しいね!イノが共通してるんだ」


 ちょうだいちょうだいと強請りはじめた彼女にもういちどしがみついて、湿った服に吸い取られた温もりを引き戻す。あたたかい。その数秒間だまっていてくれた彼女にお礼を言うと、うん、とわかったような返事があった。

 いつ帰ってきてもいいようにと熱くしていた湯舟の湯温をたしかめに向かい、ついてきた彼女に固形の入浴剤を握らせる。かわりにコンビニ袋を取り上げようとすると、執拗に抵抗をされた。困ったひとだ。


「ちゃんと冷蔵庫に入れておきますから」

「ほんと?ほんとにほんと?ひとりで食べちゃったりしない?」

「あなたじゃないんですから。……はやくお風呂行かないと、わかりませんけど」

「い、行ってきまっす!」


 待っててね!約束だからね!ビシッと人差し指でこちらを指した彼女を遮断するように脱衣所の扉を閉める。そのままじっとしていると、しばらくして聞こえてくる衣擦れの音。

 ごめんね。そう呟くと、音が止んだ。


「井上さん」


 ごめんね、きみは、そんなふうに弱ったところを特別な理由なしには他人に見せるようなひとじゃないのに。それなのに。今はわたしのために、よわくなっていてくれるのでしょう。みんなこんなものだよと、だから大丈夫だよと、示すために。

 冷蔵庫へ向かうために背を向けた脱衣所の扉が開く音がして、ふりむく隙もあたえず背後から温もりがとびついてくる。あまりに加減のない衝撃に倒れてしまった私の首にまとわりつく、金色の髪。

 反射的に逃れようとした身体にしがみつく力に、容赦はひとつも見当たらない。このひとがそれに気付かないなんて。


「いのうえ、さん」

「あんみつ」

「え?」

「食べちゃダメ、だからね。あたしのだから」


 なんですかそれ。あまりに、行動にそぐわない。あまりに私の知る井上さんらしい言葉に、笑った瞬間から涙がこぼれる。腕が強まる。うしろの心臓が、響いてくる。せっかく温もったからだが、冷えてしまう。


「わかってますよ」


 井上さんの餡蜜も私の善哉も、ちゃんと並べて冷蔵庫にいれておきます。そう約束したのに腕はやはり、よわめられないままだった。







(でもねわからないよ、わたしがいなくなることで、きみに幸せが増えるかもしれない)
111204

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