夕日の赤さをつかまえるように、ながい長い伸びをする。

 凝った身体が音を立てて解れて、すこしだけびっくりした。けれどなんだか、いいきぶん。疲れることがようやく終わった頃に訪れるこの時間は、たまらなく気持ちがいい。



「ええシルエットやなぁ」


 伸ばした腕をそのままに、振り返ると、小さな赤い火が見える。夕日に照らされてそのひとは、いつもとは違うように見えた。


「よう肩上がるな、羨ましい」

「オサムさんまだ三十やないですか」


 早いですよ。こちらに歩いてくる彼をそう諭すと、距離は一定のところで縮まるのを止める。いつもの距離。近づきすぎず、離れすぎず。それを何故だかこのひとは頑なに守ろうとするのだ。

 そんな器用なこと、一番苦手としそうなのに。


「なんや遅れとるな、いまは三十肩ってのも…て俺まだ三十ちゃうわ」

「あれ、そうでした?でもそんなに大差ないんじゃ」

「アホ。えらい差や」



 夕日は奇麗だけれど、なくなるのが早い。もうすこし包まれていたいと思うのに、そんなことは夕日の知ったことではないのだ。わたしがどんなことを願おうが、それはただ通り過ぎるだけ。そういうところもなかなか、嫌いではない。


 ご近所さんであるオサムさんは、数年前にわたしが卒業した中学校で教師をしているらしい。数年前といっても、遠い昔のことに思えるけれど。

 あのころの私からはもう、何光年も隔たっている。


「うらやましいなあ」

「ん?三十歳がか?」

「違いますよ。てかそんな年齢のことばっか言うてると老けますよ」

「おおきなお世話や。んで、なにが羨ましいて?」


 夕日が、消えていく。一番奇麗な色を目に焼き付かせたまま、どこかへ去っていってしまう。こちらで消えてしまった夕日は、今度はどこに美しい景色を作るのだろう。それを見ることができたら、わたしは夕日を恋しく思うことに飽きることができるのだろうか。

 闇に落ちた道の向こうに、丸いライトがいくつか動いている。思ったより早く近付いてきたそれは、わたしたちに明るい挨拶を残して通り過ぎていった。部活帰りなのだろう。あの威勢の良さは、野球部だろうか。


「中学生」

「せやな、ウチの学校の生徒や」

「そうやなくて。羨ましいの」


 中学生が、羨ましい。まだどうとでも道を変えることのできる中学生が、まだどうとでも汚れたり奇麗になったりできる中学生が。わたしはいつまでも羨ましくて、幾つになっても、戻りたいと思う。


「あのころにもっとしっかり考えて動いてたら、わたし、こんなに頼りない感じじゃなかったんだろうなって」


 おかげで恥の多いなんとやらですよ。某有名小説の一節を微妙に引用して呟いてみると、蛍が近付いてきた。たしかにそんな季節だけれど、蛍があんなふうに光るワケがない。煙草の匂い。紳士的な距離を越えて近付いてきたオサムさんは、わたしの頭にやさしく手を置いた。

 そのうえに重ねるようにして確かめてみると、案外、冷たい手をしている。ひんやりしていて気持ちが良い。

 そのまま握った手を、握手の位置まで降ろす。無遠慮な煙草の煙が周囲を囲む。



「やっぱり、そうでもない、ですね」

「せや。戻っても結局なんも考えへんやろしなあ」

「ですよね、うん」


 分かってはいた。きっと中学生に戻ったところで、お気楽なそのときが一番に楽しくて苦しくて。未来のことなんて、考えようとも思えないのだろう。

 幸せに、たまにはシリアスに。毎日を過ごして、そのうち気がつけば戻る前の年齢まで来てしまっている。そういうものだ。そうしてまたこの時間にオサムさんと遭遇して、こうして昔を羨むのだ。そうして、上手に宥められて。



「でも、オサム先生には一度教わってみたかったなあ」

「おっ、それはまだ遅ないで。特別授業したろか」

「なんですかそのジェスチャー」


 指をしっかり揃えた手を、素早く動かすオサムさん。間違いなくそれはツッコミに用いる動きであろう。わたしたちの母校は、相変わらず大阪気質に力を入れているらしい。昔学んだことを思い出しながらオサムさんの真似をしてみると細かい手の動きやらを指導されはじめたのでやめた。

 授業から意識を逸らすように見上げた夜空には、中途半端なかたちの月が弦を上に向けて浮かんでいる。なにを射止めようとしているのか、訊ねたら話してくれるだろうか。

 静かに見下ろすその輝くものの周りを飛ぶ蛍が、明日も晴れるとええなあと呟いた。






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