景色がぼやけて、足も走っているという実感をもたなくなってきた。決して鍛えていないわけではない。むしろ持久力には自信がある方だが、これだけの時間を一定の速度で駆けるということは、身体に相当の負担を強いるものらしい。

 息を切らしたまま半ば乞うように向けた視線のさきには、監督かなにかのように腕組みをして立っている部下が見えた。

 腕を組んで傍観する部下と、その部下に走らされている副隊長の俺。この状況に違和を覚えないわけではないが、こんな不可解な依頼でも彼女のたっての希望。拒むという選択はもとより、足を止めるという選択すら俺にはできないのだ。

 しょうがねえな俺も。呆れながら彼女から目を逸らすと、よく通る声がこの苦行の終りを告げた。



 歩いて近付いてきた彼女は手拭いも水も労いの言葉すらも持たずに、俺に身体を伸ばすよう命じる。息の整わないまま大人しくそれに従うと、彼女は白い手を伸ばし、大きく呼吸する俺の胸に、そっと置いた。


「…霞水?」


 聴診でもするかのように、何かを確かめては手を当てる場所を変える彼女。そのせいで俺の心臓は落ち着かないまま、どくどくと拍動しつづける。

 たまらなくなって名前を呼ぶと、ずっと口を閉じていた彼女が、ちいさな声で断りを入れる。

 そうして徐に、俺の胸へと顔を寄せた。

 彼女の頼みだというだけで抗えなくなる自分だ。当然、鼓動の間隔は短くなり、嬉しそうに胸に耳を当てる彼女をつい凝視しはじめる。

 なんだ、この状況。息が詰まりそうになって思わず身を反らすと、その下で彼女が微笑んだ。


「ご存知ですか?檜佐木副隊長」

「…何をだ?」


 平生の彼女は極めて物静かで、不可思議ではあるがそう目立つタイプではない。笑うときだって口元に手を当て目尻をすこし下げる程度で、つまり、こんな笑い方はしないはずなのだ。ほんとうに嬉しそうに、頬を染めて。

 それに加え普段仕事上の接点しかない彼女が、あまりに躊躇なく胸元に身を預けるものだから。


 熱の退かない頬を冷ましてくれよと顔を空に向ければ、否応なしに感じる彼女の温もりがまた心臓の音を大きくした。


「鼓動が速まってるときにだれかと一緒にいたりするとね、それを恋だと勘違いすることがあるんですって」


 心臓を見つけた手が背中に触れて、やわらかく身体をしめつける。やわらかな感覚としあわせそうな声につい浸っていると、不可解な依頼の謎は軽やかにほどけていった。


 なるほど。その効果の解釈や鼓動を速めるための手段が少しばかり間違っている気もするし、そもそもそんなことをする必要はないのだけれど。

 まあ、たしかに。効果はあっただろう。


「だから副隊長、はやく勘違いしてください」


 彼女も、特定の一人に必死になることがあるのか。遠慮もなしに与えられるその温もりにつられるように抱きしめると、心臓はいっそう忙しく働きだした。







(勘違いなんてさせなくても、とっくに)


110905

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