傾斜の厳しい坂道を、ギアを最大にした重たい自転車でひたすら上り続ける。力を入れやすくするために腰を上げることは、許されていない。しっかりとサドルに座ったまま、ギアも緩めないまま、ただ、上がれ。

 それが彼の、魔王さまの、御命令だった。



 渇きすぎた咽から荒い息を吐きながら、ただひたすらにペダルを踏み続ける。目の前にある籠にはなにやら重たそうな鞄が乗せられていて、これをいったいどこまで運べばいいのか、それともこれ自体には私を苦しめるという役割しか課せられていないのか、もう、考えるのも疲れるので止めておく。

 いや、しかし、わたしというものは生粋のもやしっ子だと評価していたけれど、案外スタミナがあるらしい。優しさの欠片もない坂道を、一度も足をつかずにここまで上りきっているなんて。うん、ここは自己評価を改めてあげるべきだな。

 がんばってるね、わたし。



「奏、スピード落ちてるよ」


 いや、前言撤回だ。温い、温いぞ私。こんなもので魔王さまのご命令に従っていると言えるのか、おいわたし。言えるのか、言えないだろう。ならもっと頑張れ。

 自分を叱咤しながら、力強くペダルを押す。それで余力をすべて出し切ったつもりだったけれど、その次も、その次も。同じように力が出るところからみると、わたしの身体はもうとっくに限界を超えているらしい。

 そうして、うしろに横座りしていた彼が不機嫌そうに溜息を吐いたのと、やっと頂上に辿りついた私が疲れきったボクサーのようになった瞬間とが同時だった。


「ほんっと燃費悪いなあ、普段から運動を疎かにしてるからだよ」


 自転車が少し軽くなる。未だ顔を上げられずにハンドルに荒い息をぶつけている私の頭の上から、彼はまたちくちくと説教をしだした。逆らえる気力など、残っているはずもない。いや、残っていたとしても逆らうことなど出来るはずがないけれど。

 それに、もし仮に逆らうことができたとしても、今はそうするときではないのだ。なぜならば今回、こうなったそもそもの原因は私にあるのだから。

 つまり悪いのは、わたしだけだ。


 胸の奥に残っていた息をひといきに吐き出すと、顔を上げて彼を捉えた。

 ひどく不機嫌そうに、こちらを見下ろす、なんにも悪くない彼。


「…ごめんね、映画」

「……」


 ハア、と乾いた溜息。

 予定通りなら今日のこの時間は、ふたりで朝一番の映画を見終わったあと、カフェかどこかで感想を語りあっているはずで。それなのにわたしのせいで、その予定はすべて崩れた。

 観光客に道案内をしていたとか、そのまま写真撮影を頼まれて気付いたら列までできていたとか、そんな理由はどうでもいい。

 幸村くんが楽しみにしていた休日を私がすべて崩してしまったことに、変わりはないのだ。


「…いいよ、」

「え?」

「しょうがないから、許してあげる」


 籠に入っていた鞄のチャックを開けて、中から出てきた石材だけを籠に残したまま鞄だけを取り出す幸村くん。奇麗だけれど、いかにも重たそうな石材。どこから取ってきたのかとか何故そんなものを自転車の籠に入れていたのだろうとか、気になるけれど、いまはそんなこと問題ではない。

 幸村くんが、あの幸村くんが。大変な無礼をした私を許す、だと。聞き間違いではないだろうか。


「え?え、ほんと?」

「許してほしくないの?」

「いえいえ!えっと、でも!」


 わたし、ひどいことしたよ?言葉にするだけで、胸の奥に鈍痛を感じる。じくじくと続くその痛みよりも、幸村くんの哀しみのほうが大きいというのに。だって予定を立てたとき、彼はいままで見たこともないくらい嬉しそうにしていたのだ。

 寛容な心を持った幸村くんとは対照にいつまでも勝手な自分に心底嫌気がさす。そんなわたしの頭を、彼はそっと撫でて。


「だって、人助けしてたんだろう?」


 それなら、頭ごなしに咎めるのも気が引けるよ。すこし寂しそうに笑った彼が、やさしく私の背を叩く。

 ああ、どうしてなんだろう。どうしてわたしはこんなにも優しいひとを、悲しませて。


「幸村くん、」


 自転車から降りて、まっすぐ彼に向かい合う。これが最後でも、構わない気がした。


「映画、行こう?公開日の朝一番は逃しちゃったけど、料金は勿論わたしが持つから」


 たとえ映画を見終わってそのままサヨナラであったとしても。構わない。このひとを悲しませながら傍にいたくはないから。すこしでも、このひとに嬉しい時間を過ごしてほしいから。

 視線をそらさずに懇願すると、彼はいつものように微笑んでくれて。それだけで、わたしの心は安らぐ。魔王だなんて、どこの誰が言ったんだ。出てきなさい、そうしてこの優しい目を見ればいい。


「いいけど。でも、そんな汗だくで映画館に行くつもり?」

「あ、…迷惑、かな。やっぱり」

「密室だからね。かなり不快かな」

「だよね…」


 どうしよう。一度帰って着替えるべきだろうか。でもここからだと遠いし、時間がなくなっては元も子もない。どうするべきかと困窮するわたしに、幸村くんはおだやかに微笑みかけて。首の後ろに置かれた手の冷たさに、なにかいやな予感がした。


「わざわざ帰らなくてもさ、向こうに良い休憩所があるじゃない」


 視線の向いた先には、いやにカラフルな王宮のような建物。どうしてああいう場所というものは、ああもファンシィな色合いをしているのだろうか。何も知らない純真なこどもが純粋に住みたいとか言いだしたら大人はどう返せばいいんだ。


「ホラ、まだお昼前だし、服もクリーニングサービスに預けておけば寝てるあいだに乾くだろうし」

「え…、あ、ああの、寝、」

「ほら、そうと決まれば善は急げだよ。このままじゃレイトショーも見られなくなっちゃう」


 自転車を押して、幸村くんはそのファンシィな王宮に向かって歩いていく。その背中に黒いオーラが見えたのは気のせいではないだろう。魔王さまと呼んだのは誰かって?ああ、それはこのわたしですよ。だって、なによりも相応しい呼び方でしょう。









(まあ別に明日のモーニングショーでも構わないんだけどね)
(ご、ご勘弁を)
(というか重いよ自転車。奏、代わって)
(仰せのままに!)




110905

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