給湯室の窓が磨りガラスであったことにこれほど感謝した日はないと思う。細部まで作りに作り込んだ笑顔をめちゃくちゃに壊して、歯を食いしばったこんな顔。だれかに見られでもしたら。終わる。

 ひとしきり表情だけで怒りを撒き散らして、落ち着いたところで普段の表情に戻し静かにお湯を沸かす。あんのやらう。お茶汲みはお茶汲みなりに無限の可能性見せてやるかんな。


「ずいぶん手間暇かけるんですねぇ」

「!」

「あ、ごめんビックリさせた?」


 扉の音なんて、ひとつも聞こえなかったのに。急須をあたためているところへ声をかけられて、必要以上に肩を揺らしてしまう。

 あの怒りの百面相は見られなかっただろうか。不安で不安で心臓をうまく静められないでいる私とは正反対に、となりでノンビリと飲み物を選ぶ小川さんはなんというか、いつもどおり。いつもどおりだ。

 ふつう上司や年上の人はあたりまえのように年下には敬語を外して話しかけてくるものだけれど、小川さんは今年入社したばかりの私にもたまに敬語を使って話しかけてくれる。これもいつもどおり。すこしだけ変わったひと。


「よかったら私お淹れしましょうか」

「いいよいいよ〜。おれ、こういうの好きですし」

「そうなんですか?…あ、お菓子作りがご趣味って以前どこかで」

「え、広まってるんですか。……いったいどこから…」

「どこからでしょうね……」


 レンジのなかでじっと熱を加えられている牛乳をぼんやりと見守りながら、小川さんがより猫背になる。会話が途切れても温度の変わらないこの空間は先程まで居心地のわるかった会社のなかにあるとは思えないほど穏やかで、こんな場所を自然に作り出せるひとに、わたしもいつか成れたらと思う。

 いや、成ってやろう。そうしてあのやろーにも、負けないで立ち向かってやる。

 ぐっと拳を握りこむと、どうじに頭になにか乗る感覚があった。見上げようとすると、そのままゆっくり撫でられる。なんだか幼い頃にでも戻ったかのような気分だ。


「…小川さん?」

「きみもめんどくさい性格してるねえ」

「はい?」


 数分前に私が受けたオシカリという名の行動制限命令は社内全域に届くほどの大音声であったから、おそらくこのひとにも聞こえていたのだろう。もしかしたらそれでなぐさめていてくれるのだろうか。そう思い至って名前を呼んだところに降ってきた言葉に、いったん思考がとまる。

 めんどくさい。昔から何度も何度も言われてきたし、つい先程も耳にした言葉だけれど。これは慰めに使うものではない。


「ええっと…、小川さん?すみません」

「ん?」

「めんどくさいとはその、どのような意味ででしょうか」

「い、意味?うーん…」


 ちょうどいい具合に温まった牛乳をスプーンで円を描くように混ぜて、なにを入れたのかより優しい色合いに整えた小川さんが、マグカップを私の前に置く。


「うん、まぁ…、なんというか、真っ直ぐなのは悪いことじゃないと思いますけど。でもちょっとは曲がってみてもいいんじゃないかなあ、と」


 ま、とりあえずこれでも飲んで落ち着きなさいよ。答えに窮したときの突破口のように勧めてもらったミルクはあたたかくて、すっきりと甘い。それだけでなんだかしあわせになれた気分。

 自分のぶんのホットミルクを一口飲み、わたしの頭をもうひと撫でして小川さんは給湯室を出ていく。そういえば、だれかに頭を撫でられるのも、だれかに飲み物をつくってもらうのも、久しぶりだ。


 なんだ。ずっと大丈夫だと思っていたけれど、やっぱり大丈夫じゃないか。ちゃんとやっていけそうな気がする。なんとかできる。もう一度冷静になって、少しでもお時間をいただけるよう頑張ろう。

 ヨシ、とかるく気合いを入れて、小川さんがマグカップの近くに転がしてくれたチョコレートをひとつ、口に放り込んだ。










120202
(どうした平介、疲れた顔して)
(いやー、どこにでもいるんだなぁと思ってね…)
(は?なにがだよ)


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