つながっていた糸がぷつりと切れたのを合図に、今一度距離を詰める。枕元に置いた灯りに照らされた唇が艶めかしく光るのに思わず息を飲んだとたん、冷たい手が頬に触れた。伸びてきていたことも、実は見えていたけれど。 だれにでも飼い猫扱いされるという奏のまるい瞳が、俺の目をとらえる。まっすぐで、しかし決して素直ではない瞳。どんな家で育ってきたのか、まだ成人もしていないころからずっと、この子はこんな目をしていた。 「理一さんは、結婚しないの?」 「ん?」 だんだん似てきた体温の手が、指が、俺の頬をすべり、唇の端に触れ、そのままなぞる。さそっているのかと勘違いするほど妖艶なそれは、まったくの無意識に行われていることだ。この厄介な女の子は、今度は何を言い出すのか。 結婚。家族が集まるたびに姉やイトコが責められている話題だ。俺はもう諦められているのか、あるいは他の理由のためか、いつからか何も言われなくなったけれど。 俺の頬で止まったままの手に自分の手を重ねると、ぼんやりしていた奏がこちらに意識を戻す。背中と布団のあいだに手を差し入れ軽い身体を起こしてやると、奏はすこしだけ驚いた顔を見せた。 成人して間もない。そんな女の子に手を出している俺もたいしたハンザイシャだが、この子もこの子で。大人びた顔で誘惑してきたと思ったら、ふとしたときにこうして頼りない子供に戻るなんて。立派な騙し屋だ。 しかもそれを意識せずにやってのけるから、俺は、一生この子から離れられる気がしないのだけれど。 かるくつけた唇を離し、とっくに凪いだ猫の目をじっとみつめる。 「それは、奏とってことか?」 「わたし?…たしかに、もう十六も過ぎたし高校も卒業したし、結婚はできる状態だけど…」 「奏とじゃないんなら俺はいったい誰と結婚するの」 「いっぱいいますよ。理一さんと理一さんの御家に相応しい、私じゃないひと」 はたして怒っていいものかと。その疑問は、ものの数秒で消え去った。この女の子の生き方を知っているからこそ分かる。この子は別に卑屈になっているわけでも、離れようとしているわけでも、ましてや引き止めようとしているわけでもなくて。 単に、いま奏とこうしている理一は、他の大人たちのように結婚して家庭を作ったりしないのか。ふと思い浮かんだそんな疑問を、ただ素直に口にしただけなのだ。 まったく。策を弄する大人のようで、どんな檻も当然のようにすりぬける子供のようで。 おもわず抱きしめた自分が考えていることなど何ひとつ解らないけれど、いつもとおなじ場所におさまった奏は、まちがいなく今日も俺の名前を呼んだ。なにか話したいのかと思って力を緩めてやっても彼女はそこにはりついたまま、また俺の名前を呼ぶ。 たったそれだけで、たやすく確信する。 大丈夫。俺の好きなこの子は、まだ、俺のことを好きでいてくれる。 頭をやさしくなでて微笑みかけ、慎重に体重をかけていくと、ちらばった髪の上で奏が切なそうに微笑んだ。 「どれだけいっぱいいても、奏じゃないならダメなんだけどなあ」 「そうなんですか。それは…選択肢があまりに少ないですね…」 「少ないですねじゃなくて。…あーもう、まあいっか。この話はきみが俺くらいの歳になっても独身だったらということで」 「私が不惑を過ぎたら、理一さんは還暦ですよ」 「はは、還暦…ね…」 伸ばされた手が静かに灯りを消す。細く、いまにも誰かに手折られてしまいそうな腕で俺を誘う。この子は、いつまでこうしてここにいてくれるのだろう。彼女の使った表現ではないけれど、惑わないとされる四十を過ぎてもこんな情けない思いがときに頭をよぎる。 同時に、きっとこの子がいまの俺の歳になるころには、すでに誰かの奥さんになっているのだろうなとも。その姿は、容易に想像ができて。 きっとすごく、きれいだ。 「理一さん、」 「ん、急かすなって」 かたちよい胸のすこし上のあたりに、まるで情けなさの象徴のような痕をひとつ残して。あ、と声が出る前に唇をふさぎ咽へ舌を伸ばすと、また冷えてしまったらしい手が、首のうしろでもどかしそうにふるえた。 120202 |