水芭蕉











「もう全て終わったよ」



名前の声がぼくに告げた。けれど振り返ることはしない。ぼくは振り返らない、現実から目を背け続ける。見たくない。受け入れたくない。手元が僅かに狂って調合を間違えた。ああくそ、また最初からやり直しだ。急がなければ解毒が間に合わなくなってしまう、急がなければ多くの忍たまとくのたまが死んでしまう、急がなければならないのにぼくの両腕は言うことを利かなくて、震えた指は薬匙を取り落とした。早く早く早く!

「伊作、もういいよ。もう止めなよ」
「でも名前…!急がないと皆が死んでしまうんだ、早く、しない…と…」

背中に寄り掛かった名前の体温が思った以上に低くて、怖気がした。ああもう間に合わない。間に合わなかったんだと理解した。ぼくは無力だ。こぼれ落ちる命に対していつだって出来ることなんて限られてる。そう言えば薬匙を触るのも久方振りだと思った。以前にはそれこそ毎日のようにして何かしらを作っていたのに。同室者に苦笑されながら自室を薬臭くした癖に。そう言えば保健室を訪れること自体が久方振りだったと思い出して怖気がした。どうして来なかったのか。どうして忘れていたのか。下級生の多い保健委員を取り仕切る為に委員長の存在は必要不可欠だって言うのに。
ぼくが保健委員長だって言うのに!
そんなのは判り切っている。今更悔やんだところで全てはもう後の祭り、取り返しなどつこう筈がない。

「どうして、止めなかったの」
「何を?」
「くのたまたちを!名前が言えば…」
「わたしが言えば彼女たちは考え直したかも知れない?確かにその可能性は捨て去れないね。でもわたしは言わないよ。何度同じ選択肢を突き付けられても、わたしは何も言わない。何もせずに傍観し続ける」

人の気配を失した学園で、あとどれ程の人間が息をしているのだろう。考えるだけ無駄だと知りながらぼくはこっそりと笑った。失笑?嘲笑?いいやこれは明らかな自嘲。どうして気付かなかったのか、なんて考えなくたって判る。委員長としての責務も上級生としての矜持も何もかもをぼくは失っていたから。何も考えていなかった。頭の中を占めていたのは天女と呼ばれた少女のことばかりで、どうしたら彼女に喜んで貰えるだろうか、どうしたら彼女を喜ばせることが出来るだろうかとそればかりだった。
少し考えれば判ることだったのに、深く考えることを放棄していたぼくは何もかもが終わるまで気付けなかった。舌先に感じた違和感、天女さまを遠巻きにしながら何もしなかったくのたまたち、あんなにも懐いていた一年生の姿を最近目にしなくなったこと、減ったおつかいの回数、実習の度に増えた怪我の回数、何か言いたげな新野先生の視線、食堂の手伝いを進んで始めたくのたまたち、六年間で身体に染み付いた筈の薬臭さに重ねられた白粉の香り。気付ける筈だったのに、気付いたのは全部が終わった後だなんて。

「邪魔もしないし手助けもしないわ」
「名前」
「それがわたしに望まれた役割。その代わりにわたしは同じ食事を所望した。貸し借りのない対等な取引よ」
「そんなのって…ないよ」
「でもそれこそが、学級委員長委員会に属する名字名前の選択」

馬鹿だった。ずっと隣にいた名前が居なかったことにすら気付けない馬鹿者。ずっと側に居たから、これからも変わらず同じ筈だと思い込んだ大馬鹿者だ。
明け方早くに天女さまが死んだと駆け込んで来た留さんの顔色はいつにも増して悪く、絶望の色を湛えていた。伊作、名字たちが見当たらないんだ。きっとぼくの顔も同じくらいに青褪めていただろう。だって彼女の死を耳にした瞬間、全部が終わったことをぼくらは痛いほど理解していた。側に居ない名前も、常より重たい不調を訴える身体も、学園内に漂う不穏な空気も。そして殺された天女も。

「名前だけでも、生きる…って言う選択肢はなかったの?」
「残念ながらなかったのよ」
「そんな…」

両手で顔を覆った。哀しいのと切ないのと虚しいのとがぐちゃぐちゃに入り混じった不思議な気分だった。ぼくが悪いのは明らかで、でもどうしてあんなことをしたのか自分でも判らなくて、悔しくて辛くてやっぱり虚しくて頭の中を無理矢理に引っ掻き回されるような気持ちの悪さ。謝らなきゃならないことは確実で、でも何と言って謝れば良いのかが判らない。ぼくは確かに名前のことが好きで、愛していた筈なのに。その気持ちは今も揺らぎがないと言うのに、どうしてぼくは天女と共にあることを選んだのだろう。まるでそれが自分の意思であるかのように感じて、今にして思えば腑に落ちないことばかり。
それでも全ては過去のこと。今更何と言ったところで変わるものではない。もう何もかもが手遅れで、手の施しようがないほど手遅れだった。六年間も保健委員として過ごした癖に食事に盛られたことにも気付かず、六年間も忍術学園で学んだ癖に自分自身のことにすら責任が持てないだなんて。ごめんねぼくが悪かった。

「だって伊作は一人で生き残ることよりも、皆と共に逝く方を選ぶ、でしょ?」

だったらわたしも共に逝くだけよ。そう言って笑った名前にぼくは悲しいような嬉しいような複雑な気持ちを綯い交ぜにした曖昧で悲惨な顔をして、それでも精一杯愛しているよの気持ちだけを込めて、膝の上に倒れた名前と唇を合わせた。



冷たさに、涙が一筋流れて落ちた。





これでさいご。
これで本当におしまいでしたとさ。
ちゃんちゃん!



変わらぬ美しさ


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