朝顔


ひょっこりと顔を出せばそこには委員長の腹を裂いた名前先輩が呆然とおれを見ていた。終わりましたかと尋ねれば混乱しながらも小さく頷き、三之助とおれの名前を呼んでくれた。それに言いようのない安堵を覚える。
ああ良かった、おれを覚えていてくれる。ああ良かった、おれを忘れないでいてくれる。ああ良かった、おれを見てくれる。ああ良かった、ああ良かった。この人はまだここにいる。

「あーあ、手ぇ真っ赤じゃないですか。手だけじゃなくて髪も装束も。早いとこ洗わないと染みになりますよ」
「ああ、うん…三之助?」
「はい?」
「あんた、何してんの」

呆れたような馬鹿にしたような声でおれを呼んだ名前先輩は可笑しなことを聞く。ずるりと落ちた委員長の身体は暫く震えてから、動かなくなった。
名前先輩の赤い手がゆっくりと持ち上がって、そうして力無く落ちるのを見ておれはこっそりと笑った。綺麗に結い上げられた髪も、綺麗に整えられた眉も、綺麗に塗られた紅も、血に濡れていた。それでも綺麗だなんて言ったら怒るだろうか。

「何しに、って名前先輩に会いに来たに決まってるじゃないスか」
「…意味判んない。三年生にもなって、危機管理能力が欠けてるとしか思えない。本気で意味判んない。え?何してんの」
「何回説明したら良いんですか」
「説明良いからこの状態見たら普通に逃げろよ」
「なんで?」
「ええー…。これ見といてそれ言う?その上、あんた質問に質問で返すのは礼儀知らずでしょうに…」

珍しく紅を指した唇を歪めて名前先輩が笑った。立ち上る臭気も、赤い手足も気にせずに近寄れば先輩が一歩下がるのを見た。その顔色の悪さから目を反らし、努めて明るい声を出しておれはまた一歩近寄った。名前先輩がおれから逃げようとするなんて、そんなのは可笑しい。可笑しいだろ、可笑しいに決まってる。可笑しい。忍たまだって簡単に投げ飛ばしてカラカラと笑っていた先輩がおれから逃げなきゃならない理由が、ない。

「そう言えば名前先輩」
「…なに」

「おれも連れてって貰えるんですよね」

嫌そうに顔を歪めた名前先輩に、やっぱりかと内心で嘆息した。滝夜叉丸を殴り飛ばすのを見た。七松先輩をころすのを見た。おれから逃げた。それで十分、判っていた。判らない方が馬鹿じゃないか。下級生だからって線引きで三年生を馬鹿にしている。忍術学園を覆う不穏な空気に、気付かない方がどうかしている。

「三之助、聞き分けて」
「ヤです。名前先輩が行くならおれだって連れてってください。滝夜叉丸たちだけ連れてくなんてずるい」
「…滝を連れてくのはわたしの役目じゃないよ」
「じゃあ先輩は誰を連れて行くんですか。七松先輩ですか、それとも他の誰かですか」
「三之助」

困ったように先輩の手がおれに伸ばされて、届く前に落ちた。
日に日に悪くなっていく上級生たちの顔色を知っていた。名前先輩が委員会に出て来る度に困ったように笑うことも知っていた。委員会に参加しなくった滝夜叉丸や七松先輩を仕方のない連中だと笑っていたことも知っていた。

一度だけ、天女を射殺さんがばかりに見詰めていたことも、おれだけは知っていた。

でも先輩は知らないでしょ?おれたちが何も知らないと思ってるでしょ?三年生が、何にも知らずにただ安穏としていたと思ってんでしょ?おれたちはそんなに愚かじゃないんだって、知らないでしょ?
何が起こるかまでは判らなくとも、何か起こるであろうこと程度なら察していた。くのたまと忍たまの仲に溝が出来ていることも、原因が恐らくはあの綺麗な顔をした天女だろうことも。知っていた。

「名前先輩」
「…だめだ、あんたは連れてかない」
「は、冷てえの」

伏せた頭の上に投げ掛けられた言葉に苦笑するしかない。連れて行ってくれないと言う。なんだそれなんだそれなんだそれ。連れて行ってくれないなら、一緒に生きて、なんて戯言に意味がないことを知ってる。どんなに好きでもおれの好意は一方的で、名前先輩がおれたちに求めてるのは違う感情。だから、連れて行って貰えない。
一緒に生きて。
そう言えたなら、どんなにか良いだろう。でもおれは馬鹿じゃないから口を噤む。でもおれは弱虫だから頭を上げられない。

「さん…の、すけ」
「は」

いつもと変わらない暖かさでおれの頭を撫でる手の持ち主なんて一人しかいない。名前を呼んで、頭を撫でて、抱き締めて、笑って。頭上に乗せられた掌が小刻みに震えているのに、見ない振りをした。やだな。名前先輩がいなくなるのは、やだな。


「…イイ男に、なんなさいね」


やわく引き剥がされた指へ追い縋ることなんて出来ずにおれはその場から逃げ出した。一緒にいたいんですだとか連れて行ってくださいとか言いたいことは山ほどあったけど、おれは全部を飲み込んで逃げた。
悲しい悲しい悲しい。辛い辛い寂しい。間違いなく家族みたいでしたよ、おれたちは。飯事遊びだと誰が笑おうと、くだらないと馬鹿にされようと、おれたちは家族でした。そう有りたいと名前先輩が願ったから、おれたちは家族で有ろうとした。そのことに間違いはない。
間違いである筈がない。
だから知ってたんです。先輩が知らない先輩のほんとうを。名前先輩がなくしたものを取り戻そうとしていたことを。知ってたんです。今度こそなくさないようにって大事に大事にしてたことも。おれは知ってたよ。おれたちは、それを知ってたのに。知ってたのにおれは何も出来ずに逃げ出した。



知ってました。あんたはおれたちと家族になりたかったんだって。



果敢ない恋


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