君影草

先輩の細くてしなやかな指がゆっくりとわたしの唇をなぞって紅を乗せてくれた。桜色のとてもとても綺麗な紅。わたしには似合わないと言ったのに、良いからと押し切られて塗られたそれ。本当はとても嬉しかったんです。お化粧なんて滅多にしないからくのたまの癖に上手に出来ないわたしと違って、先輩は薬指の先で上手に紅を掬ってわたしの唇に薄く乗せてくれた。

とっても可愛いわ。

そう言って笑った先輩に後輩たちの温かな手を預けてわたしは駆けた。委員会活動の一環として逃げた毒虫を追い何度も走った山で、漸く見付けた人影にわたしは安堵の息を吐く。眼下に立ち尽くす男は二人。二人共が青紫色の装束を纏い、荒く息を乱している。他に追っ手の気配はないことからどうやら先輩方は上手く最上級生を足止めしてくれたようだと知り、わたしは姿を晒すことを決めた。

大好きで大嫌いで切なくて悲しくて嬉しい。こんなにもわたしの気持ちを揺さ振る人が、ここにいる。

「尾浜先輩」
「…名字、さん?」

名前を知っていてくれた、覚えていてくれた。そんな些細なことが嬉しくて辛くて寂しくて苦しい。今になっても未だそんなことを考えるわたしは酷く愚かしい。もう全部が始まってしまって後戻りなんて出来ない所まで来てしまって、直に終わろうとしているのに。

「わたし、先輩の足を止めなければならないんです」
「そう、もう…止められなくても、動けそうにないけれど」
「ええ、それでも。ここより先へ行っても良いのは、鉢屋先輩だけなんです」

血走った目でわたしを睨み付けた双忍の片割れは尾浜先輩と何やら問答を繰り返し、そうして唇を噛み締めてわたしの隣を走り去って行った。その背を見送って、その姿が見えなくなってから漸くわたしは振り返った。先程までより荒く呼吸を繰り返す彼はその背を木の幹へと預け、地面に散らばった髪に頓着する様子も見せずにただわたしを見ている。

「…四年生の、名字…名前さんだよね?」
「はい、尾浜勘右衛門先輩」
「八左ヱ門の…後輩の」
「よくご存知ですね。八左先輩は学園で?」
「…多分ね」

忍術学園の男と言う男が骨抜きにされた。惚れたなんて生易しい言葉では足りなくて、学園の男と言う男が誑かされた。それは許す許さない以前の問題としてわたしたちの前にひけらかされた現実だった。これまでに積み上げた関係も言葉も約束も、わたしたちの全てを打ち砕く容赦のない現実は天女さまだけに優しかった。

「八左先輩は…、いいえ何でもありません」
「言ってよ。…あいつは君のことばっかりだったんだ、さいごまで」
「……八左先輩は、怒っていましたか」
「ちっとも。あいつは名字さんのこと、心配ばかりしてたよ。女の子だってことを抜きにしたって後輩の中でも一番可愛がっていたからね。名前が名前の名前にって、いつだっておれたちに名字さんの話ばかりしていた」
「怒って、嫌いになってしまえば良かったのに」
「そんなこと出来るような奴じゃないって…知ってるでしょ?」
「はい、知ってます」

わたしのことを好きだと言ってくれた人。卒業したら一緒になろうと言ってくれた人。わたしの気持ちを知りながら、それでも想いを寄せてくれた人。あの人を好きになれたらどんなにか良かっただろう、それでもわたしは。

「尾浜先輩、過ぎた話を聞いてくださいな」

知っている。八左先輩を応援していたことだって、わたしのことなんてどうとも思っていないことだって、本当は会計委員の先輩に片想いしていたことだって、知っている。どんなに理由を並べても、もう過ぎたこと。時間は戻ってくれないのだから、全て今更。



花摘みの好きな女の子がいた。その女の子に恋した男の子がいた。それだけであれば良かったのに、女の子は別の男の子に恋をしていた。この時点で一人は不幸になることが決まったようなもの。だって男の子は二人いるのに女の子は一人しかいないのだから。
花摘みの好きな女の子が恋した男の子はまた別の女の子を好いていたけれどその女の子には別の想い人がいた。何より不幸だったのは花摘みの好きな女の子もその子に恋した男の子もそれらを知っていたこと。何も知らずに友人である男の子の恋を応援した男の子に悪意はないし他意もない。花摘みの好きな女の子が自分に想いを寄せているなんてとんと知らなかった。だからこそ誰も幸福にはなれないことは判っていた。一方通行の片想いが実らないことなんて、考えるまでもなかった。
そのまま時間が過ぎてしまえば未だ良かった。そうであれば何も起こらず女の子と男の子たちの関係も変わらずに残酷なまでに優しくもない時間が全てを解決してくれた筈だった。だった。既に過去形でしかない。どこからともなく忍術学園へ現れた神の御遣いこと天女さまによって何もかもが歪んでしまってもう戻れない。それは宛ら砂糖水に魅せられた蟻のようにぞろぞろと。誰よりも恋人を大切にしていた先輩も、堅物と有名だったあの人も、報われない片想いを続けていた彼も。
恋をした。理由なんてあってないようなものだった。誰からも当たり前のように愛された天女さまは当たり前のようにそれを享受した。お似合いだった二人が別れたのは調度その後。片想いを続けていた女の子が打ち拉がれたのも調度その後。花摘みの好きな女の子が咽び泣いたのも同じ頃合いだった。誰もが天女さまに恋をした。それはどんな妖術だろう。


「わたし、先輩をお慕い申しておりました」

何も知らなかったことを詰る気は毛頭ない。ただ少しだけ寂しくて悲しくて辛いだけ。僅かに見開かれた目に薄っぺらく笑んでわたしは身体を横たえた。大丈夫、どうせあの世で地獄に堕ちるのだから。わたしなんかを好いてくれた大切な先輩にはそちらで謝ることにします。



花摘みの好きだった女の子は、もういないのだと。



純潔


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