華一花

天女さまの唇に紅を乗せました。赤い赤い鮮やかなそれはわたしの気に入りでしたが、わたしには不似合いな色だったので天女さまへ差し上げることにしました。漆塗りの高級な容器に入れられた僅かな紅色は、わたしから天女さまへの手向け代わりなのです。
騒がしい忍たま長屋の喧騒から隔たるくのたま長屋の一室で、わたしは天女さまに死化粧を施しました。しなやかな黒髪に椿油を含ませ、目の下の隈には白粉を叩き、そうして美しい天女さまを作り上げているのです。

「天女さま、失礼致します」

指が震え僅かにはみ出した紅を布で拭い、天女さまは美しい姿のままで眠っていらっしゃる。同室の友人がほうと溜息にも似た吐息を零しました。本当に、天女さまはただ眠っているかのように見えます。夜が明ければ目を開いて起き上がるのではないかと思うほど、天女さまは美しいのです。

くのたまが殺めた天の国からいらした女御は、こうして息を引き取りました。ここにあるのはただ亡骸ばかり。



「名前、名前!」

お逃げなさいと先輩に背を押されて、幼い後輩の手を引き、わたしたちは学園を出ました。
最後にと縋ったわたしの我が儘を、六年生の先輩方は悲しそうに微笑まれてわたしの指を受け入れてくれました。桜色の、とっておき。いつか恋をして好いた男のために引くと決めていたとっておきでした。強く優しい先輩方の唇に、桜色の紅を順に引いてわたしはお別れを口にしました。もう今世で会うことはないでしょう。
わたしは幼い後輩を急かすようにして駆けました。追っ手の気配を感じる度に後輩が、同輩がと順に姿を消しました。桜色の紅を纏ったわたしの指先は彼女たちの唇に触れ、そうしてそれが別れでした。

「名字先輩、お先にご無礼致します」

後輩の唇に紅を乗せれば、彼女はにっこりと微笑んで闇に消えました。下級生の少女たちを無事に逃がすことがわたしたちの使命でした。託された少女は先程の後輩が可愛がっていた一年生で、涙ぐみながら嗚咽を堪えていました。幼いながらに二度と彼女と会えないことを知っているのでしょう。わたしは少女の手を引いて駆けました。わたしたちは逃げねばならないのです。

「名前!」

暗い森にわたしの名前が響きました。もう残っている上級生はわたしばかりです。夜目が利くわたしは遠方から必死の形相で駆けて来るシナ先生の姿を認め、握っていた後輩の手を離しました。
もう心配は要りません。先生が来てくださったのですから、わたしが幼い子供たちの身を案じる必要もないのです。少女たちの背を優しく押しやり、振り返らずに真っ直ぐ駆けるよう諭しました。嫌々と首を振る子の手を、唇を噛み締めた子が引いてくれたのでわたしは微笑みながら言ったのです。

「おいきなさい」

涙を零しながら駆け出した後輩たちはもう大丈夫です。わたしは空になった容器を握り締め、噛み締めた唇が裂け血で濡れるのを構いもせずに振り返りました。夜目が利くとは言っても、相手は男なのですから、口紅の色と血の色の区別などつかないでしょう。
振り返ったそこには、一人の男だけが立っていました。何度も左右に視線を彷徨わせ、そうして意を決したように彼はわたしの名前を口にしました。

「名前」
「あなたが此処にいると言うことは、皆は本懐を遂げたのかしら」
「…名前っ」

これは賭けでした。天女さまに恋しい男を奪われた、哀れな女による賭けだったのです。

わたしたちは食事に少しずつ毒を含ませました。それは毒薬に身体を馴らすような僅かなものだったので誰も気付きはしなかったでしょう。いいえ、聡い六年生の忍たまたちは気付いていたかも知れません。六年間保健委員を務めた先輩がいたのですから。
けれどその先輩でさえ、疑いを持たなかったでしょう。下級生たちの食事は別の鍋で作られていましたし、わたしたちくのたまも同じ食事を摂っていたのです。疑う余地はありませんでした。

「どうして、こんなことをしたんだ…!」
「わたしたちが、くのたまだったからよ」
「どうして、こんな…!」

わたしたちが用いたのは身体に蓄積されるような毒でした。図書委員の先輩が調べ、生物委員の後輩が採取し、体育委員の先輩が運び、保健委員の同輩が調合し、用具委員の後輩が砕き、会計委員の同輩が量り、作法委員の先輩が溶かし、火薬委員のわたしが混ぜました。

そうしてそれは少しずつわたしたちの身体に溜まっていったのです。

「名前…!」
「どうしたの、わたしはここにいるでしょう?もう、逃げたりしないわ」

最初に体調不良を訴えたのはわたしの後輩でした。けれどわたしたちは毒を盛り続け、そうして毒を食し続けました。
これはわたしたちの勝負だったのです。

「わたしたちが先に死ぬか、天女さまが先に死ぬかの、単純な賭けよ」

耐毒性の低かった天女さまがお亡くなりになったのは今朝のことでした。わたしたちの身体も疾うに限界を迎えていましたが、誰ひとり欠けることなく吉日を迎えることが出来たのです。これも忍術学園で学んできたお陰とわたしたちは手を取り喜び合いました。
わたしたちは天女さまに勝ったのです。床に臥せりながら後輩は泣きました。もう思い残すことは何もないと泣きました。

「どうして、こんな真似をしたんだ…」
「言ったでしょう、わたしたちはくのたまなの。惚れた男に捨てられて泣き寝入るなんて不様な真似、出来る訳がないわ」


好きだった。愛していた。だからこそ許せなかった。許したくはなかったのです。天女さまに現を抜かす忍たまなど、視界に入れるのも不快でした。だからこそわたしたちは全てをなかったことにしたのです。
天女さまも、過去の恋人たちも、そうして自分の中で燻り続ける愚かで愛しい恋心も全て。殺してしまうことにしたのです。


「身体が思うように動かないでしょう?解毒薬だって役には立たないわ。わたしたちがそんなに甘くはないことを、あなたたちは嫌というほどに、知っているでしょう」
「名前」
「他に誰も来ないと言うことは、そういうことなのね。皆は、もう逝ってしまったの」
「…っ」

飲み込んだ唾液からは噛み締めた唇から溢れた血の味がしました。残るはわたしと目の前に立つ忍たまがひとり。
わたしが紅を塗った先輩も後輩も既に先へ逝ってしまったのです。もう、残された時間は僅かだと互いに判っているのです。判りきった問答に費やすための時間など、もうないのです。あの子は好きだと言った髪結いと、あの先輩は大切だと言った後輩を、そうして同室の彼女は愛した先輩を。
わたしたちを哀れと笑いますか。それも良いでしょう。身体の影に隠した左腕は先程から痙攣を続け、紅の入っていた容器は足元に落ちました。目の前に立つ彼の手も、苦無を構えることさえ出来ないのでしょう。悲しげな顔でわたしを眺めています。

本当に、もう時間がないのです。

「あの女にわたしたちが絆されたからなのか」
「そうね、それも一端よ」
「では、どうして…」

立っていることさえ困難になったのか、彼はその場に膝を着き、そのまま倒れました。わたしも既に身体を木の幹へと預けている格好でしたが、摂取量が大幅に異なる分、彼らの方が先に限界を迎えたのでしょう。
どうしてと尋ねる彼の側まで這いずり、わたしは装束が汚れるのも構わずに彼の頭を抱き上げました。彼はその目でわたしを見つめて問い掛けたのです。

どうして。

腹の奥がじんと痺れるような悪寒を感じ、咽喉を競り上がる何かに恐怖しながらわたしは微笑みました。もう身体は動きません。全てをなかったことにするのです。天女さまも、過去の恋人たちも、未練たらしく思い続ける自らの恋心も。
そうして何もかもを失って、わたしは彼の頭を抱きしめました。まだ聞こえているでしょうか、まだ届いているでしょうか。

最期に残ったこれだけが、わたしの本当でした。

「ねえ、三郎。あいしていたわ」





紅く色付いた唇で、わたしたちはただそれだけを伝えたかったのです。




君を愛す



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