born ashes


※死ねた注意





小指と小指を絡めて約定を交わしました。ぼくはいつだって待つことしか出来ませんでしたので、いつだって待っていました。いつまでだって待っていました。行ってきますと言った彼がただいまと帰る日を待っていました。もう彼は帰らないのだと吊り目の男が言いました。もう彼は戻らないのだと長髪の男が言いました。もう彼はいないのだと無愛想な男が言いました。もう彼は死んでしまったのだと酷い隈の男が言いました。もう彼はになってしまったのだと顔を歪めた男が言いました。ぼくはいつまでだって待っていました。二日過ぎ、三日過ぎ、そうして四日が過ぎて五日が過ぎました。保健室で彼の愛した後輩たちが泣きました。どうして泣くのと尋ねれば、名字先輩は悲しくないのですかと尋ねられた。どうして泣くの。何が悲しくて泣くの。誰かにいじめられたの。一体何があったと言うの。嗚呼おかわいそうにと眼鏡の一年生がぼくの肩に縋りました。ぼくは首を傾げて後輩を抱き上げました。彼はまだ帰りません。

「遅いなあ、実に遅い。一体どこで油を売っているのやら」

六日が過ぎて、七日が過ぎて、気付けば幾日過ぎたのかさえ忘れそうなほど月日が経っていました。彼はまだ帰りません。ぼくの小指に絡む指はありません。待つことしか出来なかったぼくは一人で出歩けるようになりました。布団から起き上がることも出来なかった身体は一人で走れるようになりました。彼はまだ戻りません。望む通りに動かなかった左腕は棒手裏剣を的に当てられるようになりました。彼はまだ戻りません。新野先生から完治のお墨付きを頂きました。彼はまだ帰りません。ぼくは小さな荷物を背負いました。彼はまだ帰りません。保健室で後輩たちが騒ぎ始めました。彼はまだ帰りません。不運な小さい彼らは誰かの掘った塹壕だか蛸壺だかに落ちたのでしょう、悲鳴が聞こえました。彼はまだ帰りません。

「誰か、誰か!早く名字先輩を止めて!」
「早くしないと名字先輩がいってしまう!」

悲鳴を聞き付けたのでしょう、後輩や同輩たちが誰かを探しています。彼はまだ帰りません。ぼくは出門表に名前を記しました。名字名前。この名前を好きだと言ってくれた男がまだ帰りません戻りません。保健室でこっそりと名字の下に己の名を記して顔を赤らめていた男がまだ戻りません帰りません。男の名字の下にこっそり名前と記した七夕飾りは空に届いたでしょうか。まだ帰りませんまだ戻りません。卒業したら町医者になるのだと笑っていた男がまだ戻りません。その時には共に住まわないかと誘ってくれた男がまだ戻りません。ぼくはひとりぼっちです。彼はまだ帰りません。

「名前、どこへ行くつもりだ」
「迎えに行くんだよ迷子になってしまったようだから」
「どこへ迎えにいくんだ」
「どこへなりとも」

塹壕に落ちて泣いているのかも知れません。足を滑らせて崖から落ちているのかも知れません。へまをして捕われているのかも知れません。駆けて迎えに行かなければなりません。彼はまだ帰らないのですから。まるで諭すようにぼくの名を呼んだ男は、もう会えないのだと言いました。彼はまだ帰りません。ぼくは泣かずに待っていました。彼はまだ戻りません。そろそろ泣いてしまいそうです。彼はまだ帰りません。

「山の向こうの村でも町でも、谷を越えた城でも森でも、海を越えた先でも、空の向こう側でも、極楽でも地獄でも、どこへなりとも」
「伊作は、もう、んだんだ」
「だから行くんだよ留三郎。迎えに行かなければ、あれは帰って来られない」
「名前」

彼はまだ帰りません戻りません帰って来ません。指切りをしたのに、約定を交わしたのに、彼はまだ戻りません。ぼくは待っていることしか出来ませんでしたので、あの頃彼を追う術を持たなかったのです。嗚呼、嗚呼。走れる足があれば良かったのに、縋れる腕があれば良かったのに、留めおく力があれば良かったのに。あの頃ぼくが持ち得たのはただ約定を交わす小指だけでした。それすら彼の補助を受け、彼の優しさを用いて交わされたものでした。彼が帰るころには元気な姿で迎えてあげられるように約しました。ぼくは元気になりました。この足も腕も指も彼と共にあるために、あることを許されるようにと手に入れました。彼はまだ帰りません。ぼくは元気になりました。彼はまだ帰りません。

「追い掛けなければ、迎えに行かなければ。ねえ」
「違う、それは違う。伊作はそんなこと望まない、絶対に、望んでない!」
「では怒られに行かなきゃならないね」

ただいまと彼が言ったらおかえりと出迎えて、名をやろうと決めていました。名字伊作だなんて不似合いにも程があるけれど、彼がそれを喜んでくれるならぼくはそれでも構わないと思ったのです。彼はまだ戻りません。寂しくて悲しくてぼくは待つことに疲れてしまったので、彼を迎えに行くことに決めました。彼はまだ帰りません。彼はまだ帰りません。

「行ってきまあす」

彼はまだ帰りません。彼はまだ戻りません。彼はまだ帰りません。ぼくのおかえりは一体どこへ行けば良いのでしょうか。彼はまだ戻りません。彼のただいまは一体どこへ行ってしまったのでしょうか。彼はまだ帰りません。首から下げたお守り袋には白灰が入っています。彼はまだ戻りません。彼が大切にしていた骨格標本から小指の骨だけ拝借しました。彼はまだ帰りません。本当はぜんぶ知っていました。彼はもう戻りません。それでもぼくは行くのです。彼はまだ帰りません。ただいまを聞いていないのです。彼はまだ帰りません。彼はまだ帰りません。だからぼくは行くのです。彼はまだ帰りません。



骨灰は降りません




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