林檎の話

天女さまと慕われた少女を目当てに、各国が忍を差し向けたのは諮ったように同時期だった。夜半に塀を乗り越えて侵入して来た不審者と最初に遭遇したのは、日課である夜間の鍛練へ向かおうとしていた六年生の潮江文次郎だった。

「なんだこれは」

それが始まりだった。



にげろ!だめだ、こっちは…!下級生は下がっていろ!はやく!ああ、せめて血止めを…!急げ!一体誰が…!あああ!危ない!そっちじゃない!にげろ!誰か助けて…!せんせい!あああ!下がれ…!痛い痛い痛い!身を低くして…!たすけて!…避けろ!何者だ!あああああ!先輩…!火が回ったぞ!だめだ!まだあそこには…!逃げろ!くっ…!嫌だ、やめて…!あああああ、あああ!嘘、どうして!先に行って…!あぶない!…いた、い!あああ!逃げ、にげろ…!血が!もうだめだ!早く…!なんで…!嘘嘘嘘!あああ!にげて!だめだ…!ああああああああ!あああああ、あああァあああああ!!ああああああア、ああああああああ!!!

「どうして、と君は聞いたね」
「あ、あ…!」

天女さまと呼ばれた少女は裾の黒く染まった着物を纏って逃げていた。眼下では忍術学園が燃えている。少女を守るようにして青紫色の装束が庇っている。包帯姿の忍者は憐れむように少年たちを眺めた。

「理由なんて最初からないよ。君が珍しかった、それだけだ」
「そんな…!」
「それ以外、君に価値なんてないだろう?特別な能力がある訳でも、特別な血を引いている訳でもない。ただ君は物珍しかったんだ」
「そんな、ことで…」

苦無を構えた少年たちは覚悟を胸に荒い息を吐いている。憐れだ。何も知らない少女に罪はなく、何も知らない少年たちにもまた罪はなかった。忍者は大きく溜息を吐いた。平成から来たというそれが事実なのか偽りなのか、そんなことはどうでも良いのだ。嗚呼、憐れ。

「そう、それだけのことでこんなことが起こる。君にとっては取るに足らない詰まらない理由かも知れない。けれど、君の理屈はなに一つ通用しないんだよ、天女さま」

少女の唇は青色に染まりわなないている。焦点の合わない目は虚ろで、けれどその手は少年のひとりにしっかりと握られていた。不破雷蔵と呼ばれた少年だった。天女に恋をした少年だった。片割れを失った少年だった。五年間連れ添った片割れを手放した手が取ったのは白く柔らかな汚れを知らない手でした。なんて戯言。

「あたしが、わるいの…?」
「いいや君は悪くない」

ただ現れて恋されてきっとその感情が愛に変わって愛されてしまっただけ。ただそれだけの少女に何の咎があるだろうか。慣れない生活に必死に馴染もうとしていたひたむきな少女。そのひたむきさが、優しさが愛に繋がった。ただそれだけだった。

「けれど原因が君であることは事実だよ。君がいた為だけに、忍術学園は燃えている」
「じゃあ、どうすれば良かったって言うの…!?」

片手で顔を覆った少女を憐れみながら包帯姿の男は、首を竦めた。視線は今も憐憫を湛えている。憐れでならない。戦う力も守る力も持たない無力な少女は、ただそこにいただけで全てを奪われるのだ。憐れ憐れ、その感情は同情でしかないけれど。

「知らないよ、そんなの」
「え」
「わたしは神サマではないからね。それにわたしは君でもない。考えるのは君の役目だろう」

だから男は口を噤む。例えどんなに聖人君子染みた行動を起こしたとしても、万民から好かれる訳がないと。つまり少女の存在そのものが。

異質(つみ)

「そんな…」
「可哀相にねえ」

男は憐れむ。少女に恋慕を抱き死に逝く少年たちを。殉ずる。言葉の意味を正しく理解してもいないだろう少年の前に放り投げたそれが新たな絶望かも知れない。唯一の希望かも知れない。使いの身にはどちらでも構わないのだけれど。

「なん、だ?」
「贈り物だよ、君たちに」

恐る恐るといった体で風呂敷を開いた少年たちは中から現れたものに小さく安堵の息を吐いた。折り箱に詰められたそれは、美しい懐紙に包まれた小さな大福だった。小振りなそれは人数分あり、顔を見合わせた少年たちは男を眺めた。危機的状況で渡されたと言うことは自害用の毒薬でも仕込んであるのかも知れない。

「美味いものはいついかなる状況下でも美味いものだ」

「え?」
「わたしの知り合いのくのいちが持論にしている言葉でね。だからあの子は戦場で団子を食らうし血塗れでも頓着せずに蕎麦を啜る」
「可笑しな、ひとですね」
「そんな彼女から君たちへの餞別だよ」

不思議そうな顔をした少年たちの内で、ただ一人だけが唇を戦慄かせていた。ぎゅうと手を握られて少女だけは怪訝そうな顔で少年を見詰めている。男はそれを見て目を細めた。感情は窺えない。

「…あ、あああ!」
「雷蔵くん?」

その場に崩れ落ちた少年は泣きながら笑っていた。少女たちはそんな少年の名を心配そうに呼んでいる。雷蔵くん、雷蔵、雷蔵雷蔵、雷蔵!その名で呼ばれながら少年はただ悲鳴のように声を上げて笑った。あはははは、あはははははは!あは、あはははは、あはははははははは!!っはは、あーっはっはは、はは、ははははあははは、ははははっはははは、は、ははははは、あははは、はははははははは!!!

「さようなら不破雷蔵くん」

男は脳裏に一人の少年を思い描きながら踵を返した。姉に連れられて男の前に現れた少年は善哉と汁粉とで延々と悩んだ結果、姉と同じ苺大福を選んだ。そう。へにゃりと笑った少年は鉢屋三郎と名乗った。



味ばかり気にしていれば皮から腐り、見目ばかり気にしていれば芯から腐って落ちるもの。どちらにしろ腐ってしまえばあとは落ちるだけ。

(さようなら鉢屋三郎くん)




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