弟の話

変装をわたしに仕込んでくれたのは姉さまだった。姉さま姉さまといつも後を付いて回ったわたしに嫌な顔ひとつせずに構ってくれた年上の姉。わたしは姉さまが大好きだった。変装は上辺だけ取り繕っても直ぐに粗が目立ってしまうからと教えてくれたのも姉さまだった。

「装う相手をよく観察なさい。趣味嗜好から口調思考回路まで、すべてを網羅なさい。相手のことを知る上で、無駄な情報など一つもないよ。共に過ごすのもよい手だね。寝食を共にすれば、呼吸をするように相手のことが判るもの。無理に似せずとも、察することが出来るようになる」

だからわたしは雷蔵の顔を借りた。同じ歳の頃に似たような体格、首から上さえ模してしまえば雷蔵を装うのは存外に容易だった。そうして五年間、わたしは呼吸をするより容易く雷蔵になることが出来るようになった。くのたま教室の山本シナ先生や姉さまのように体型まで装うことは未だ出来ないけれど、雷蔵になることだけは誰にも負けないと胸を張れた。

「本人でさえ気付いていない癖さえも、わたしは覚えてしまったもの」

わたしが一番上手に模すことが出来るのは、わたしの一番の友達。まるでそれが友達の証明のようで、わたしは見せびらかすように雷蔵の顔で色んなことをした。

「だからきっと、雷蔵を見たら姉さまはわたしと見分けがつかないかも知れない!」

それはどんなにすてきだろう。雷蔵はやさしくて人がいいから、姉さまは絶対に気に入るだろう。なんてすてきな!天からやってきたお姉さんだって雷蔵の振りをしたわたしのことを好きになってくれたもの。



長い黒髪を靡かせて颯爽と歩く女の手に牽かれて、青紫の装束を纏った黒髪の少年が戸惑いを隠そうともせずに歩いていた。

「あれ、名前、姉…さま?」

目の端に紅を点した女の人には見覚えがあった。だって、そう、あれは。狐面を模したのだと言っていた。黒い髪に紅の赤がよく映えて、綺麗だと褒めたのはこのわたしだ。姉さま、姉さま、名前姉さま!

「雷蔵くん、なにか良いことでもあったの?」

とっても嬉しそうだと笑うお姉さんに満面の笑みを返す。だって姉さまがいらっしゃったのだ。方角から向かった先が学園長の居室だと判ったから、わたしはお邪魔にならないようにと此処で待つの。そうして姉さまがいらっしゃったら、お姉さんを紹介するのもいい。ああ、けれど先に雷蔵を紹介しなければ!最近はくのたまと親しくしているようだから、この機会にわたしにもそちらを紹介して貰おう。雷蔵が好きになった相手なら、わたしが好きにならない筈がないのだもの。ああ、けれど。

「さっき、女の人に手牽かれてた奴、あんな奴ウチの学年にいたか?」

首を傾げながらハチが言った。整ってはいたけれど平凡な顔立ち、長い黒髪を高く結って、青紫の装束を纏った。え、あれ、うん、だってあれは。でも、どうして?おかしいな、だって、ねえ、どうして。見間違いなどではない、そうだ、見間違いでは有り得ない。そう、あれ、あれは、あれ、は。どうして気付かなかったの、だって、あれは。そうだ、気付かない筈はない、だって、だって、あの顔をわたしは知っている。あれは、あの顔は、見間違う筈がない、だってあれは、

わ た し だ !



「世話になったな」

ぶっきらぼうに、けれど唇を噛み締めて本当はとても寂しいのを隠している。五年の付き合いでそんな物の言い方も承知の上で、ハチは目の前にある黒髪を掻き混ぜた。相変わらずだなあと笑う兵助も、勘右衛門もいつも通りだ。だってみんな知っているのだ。鉢屋三郎は別れに涙を好まない。

「あと一年だというのに」
「まあ三郎なのだから、学ぶことなどないのだろうさ。なあ、兵助」
「突然過ぎてまだ実感が湧かないが。達者でな、三郎」
「と言うより素顔を見たのが初めてなのだもの。まるで三郎だという気がしない」
「そりゃそうだ!」

からからと笑うハチに口元を綻ばせていた男が、わたしを見遣った。大きく見開かれた目にはわたしだけが映っているような、錯覚。立ち尽くしていたわたしを、駆け寄ってきた男が抱きしめる。伸びた黒髪が眼前で揺れた。ああ、どうして。

「すまない雷蔵、さよならだ」

どうして、わたしを彼の名で呼ぶの。おまえは一体誰なの。わたしの顔で、わたしの声で、わたしの仕草で、それこそまるでわたしのように、わたしを慰めるおまえを眺めている、わたしは誰なの。否、わたしはわたしがわたしであることを知っている。この顔が借り物であることを知っている。

「時間だよ、三郎」
「ああ。それでは皆、またいつか再会の場が戦場ではなく地獄(あのよ)でありますように」

最後に一度、きつくわたしを抱きしめて離れた男は振り返らなかった。赤い紅を点した名前姉さま。どうしてわたしに見向きもしないの。ああそうか、わたしがあまりにも雷蔵に、あの子に似ていたから間違えてしまったの。
(嗚呼そんな訳がないと誰よりも知っているのに)

「長らく三郎が世話になったようなので、わたしからも一つ忠告をあげよう。味ばかり気にしていれば皮から腐り、見目ばかり気にしていれば芯から腐って落ちるものなのだよ」

首を捻ったハチを笑って、名前姉さまは言った。林檎の話さ。それからわたしに向き直って、ああ、姉さま!名前姉さま、わたしです、わたしが三郎です。あれはどこの誰ですか。あれがわたしの顔を模しているから姉さまは間違えておられるのだ(そんなこと)ああ、どうして雷蔵がここにいないの。雷蔵さえいればあの偽者の面の皮を剥がせるのに(そんなこと)どうして。

「名前、姉…」
「わたしの可愛い子に、顔をくれてありがとう 不破雷蔵」

あれ、可笑しいな。姉さまがわたしの変装を見破れない筈がないのに。名前姉さまがわたしを見誤る訳がないのに。それなのに、名前姉さまがわたしを雷蔵と呼んだ。あれ、どうして。わたしは雷蔵だった?そんな筈は、ああ、けれど姉さまが。

「その顔はもうおまえだけのものだよ」

晴れやかに笑った姉さまは、名前姉さまはわたしに背を向け去ってゆく。それではさようならと去ってしまう。それなのにわたしの身体は動かない。わたしは不破雷蔵だったの。だから姉さまはわたしを見ないの。わたしは、わたしは。一体何者なのですか。


絶望が口を開けて嗤ったのです。




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