片割れの話

気が付いた時には既に遅過ぎた。三郎の口から毎夜のように、空から降ってきた女性への称賛を聞きながら少しだけ可笑しいなと思った。食堂で教室で自室で、ハチや兵助や勘ちゃんを交えて行われる会話はいつも天女さまのことだった。この間まで三郎は暇さえあれば彼の自慢である姉君の話ばかりしていたのに。まるで四年の平のように繰り返された姉君の話を、ぼくは疾うに覚えてしまったと言うのに。三郎は頬を桜色に染めて、弾んだ声で違う名を呼ぶ。堪えられなくてぼくは厠へ行く振りをして部屋を出た。泣きそうだった。

「う、わっ!?」

誰とも顔を合わせたくなくて、通った場所が悪かったのか。気付いたら穴掘り小僧の異名を持つ後輩が置いていた目印にも気付かずに蛸壺の底にいた。五年生にもなって、注意力散漫だなんて笑い話にもならない。自嘲の笑みと共にぽろぽろと涙が溢れた。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして、どうして誰も気付いてくれないの。どうして誰も可笑しいと思わないの。どうして受け入れられるの、どうして考えないの、どうして悩まずにいられるのどうして笑っていられるの、どうして違和感を覚えないの、どうしてそれが正しいと思えるの。どうやったらぼくは君のようになれるのですか、ねえ誰か教えてください。ねえどうか教えてください。どうやったらぼくは三郎のようになれるのですか。

「おやこれは奇妙な落とし物を見付けた。おまえは鉢屋三郎と同じ顔をしているのだね」

聞こえた名前に顔を上げると、蛸壺の穴から空だけでなく人の顔が見えた。桃色の装束はくのたまのものだ。ぼく自身くのたまに嫌悪感も苦手意識もないけれど、三郎がぼくの顔を使って悪戯を行う所為でくのたまからの覚えがよくないことは知っている。

「どうして、くのたまが此処に」

言外に忍たまの領域であることを主張したが、相手はどこ吹く風でうっそりと笑った。赤い紅を目尻に点した女は、まるで色街の遊女のように艶っぽい仕草で笑ってみせた。それはそう見えることを計算し尽くされた笑みだった。

「その装束は五年の忍たまだね。坊や、お名前は何と言うの。それから、どうして泣いているのか教えておくれ」

まるで一年生や二年生に対するような言葉だった。柔らかくてやさしいものしか含まれていない、羽二重餅のような柔さ。伸ばされた腕に半ば唇を尖らせて掴まれば、女生徒とは思えない腕力で引き上げられた。まるで本当に幼い子供になったような、錯覚。

「おや本当に鉢屋三郎にそっくりだ。それこそ双子のように」
「流石はくのたま。意地が悪い」

本当の意地悪は蛸壺から人助けをしたりしないよと正論を吐かれて苛立った。相手の顔に見覚えはなかった。けれどくのたまの顔なんてまじまじと眺める機会なんて滅多にないから、彼女がくのたまか否かの答えをぼくは持っていない。

「それで、坊や。どうして泣いているの」
「不破、雷蔵です。泣いて、などいません。これは、蛸壺に落ちた際に土埃が目に入っただけ、」
「ではないだろう。三郎三郎と坊やは泣いていた。それはわたしにとって無関係でいられる名ではないのだよ。だから教えておくれ。坊やは何をそんなにも、恐れているの」

真っ直ぐに射貫くような視線が怖いと思った。この目は三郎と同じだ。他人を見極め、分析し、観察する目だとぼくは知っている。三郎は他の誰よりも長い時間をぼくの観察に費やした。そうして彼はもう一人のぼくになったのだ。

「何も、恐れてなど」
「三郎のようになりたいと泣いていたね。けれど坊やは三郎ではないのだから、鉢屋三郎になることは出来ないのだよ。そんなこと、坊やとて疾うに知っているだろうに。それでも三郎になりたいと泣くのはどうして?」

はらはらと零れる涙が顎を伝う度に、伸ばされた白い指先が頬を拭った。まるで目の前にいるくのたまが三郎の変装のように思えてならなかった。雷蔵、と呼んで欲しかった。



幾度も言葉に詰まりながらの下手くそな訴えは、上級生の包容力にも似たなにかで許容された。天から降りてきた天女さまに友人たちが骨抜きにされてしまったこと。ぼくだけがどうしても違和感を拭い去ることが出来なくて友人たちのように彼女を受け入れることが出来ないこと。共に過ごしていても独りぼっちになってしまったこと。だから三郎になりたい。同じ顔貌なら、三郎のように彼女を受け入れて笑って過ごしたい。彼女に恋をして頬を桜色に染めて三郎は彼女を受け入れているのに、同じ顔をしていながらぼくは未だに天女さまを受け入れられないでいる。そう言って泣けば、くのたまは、声を出して笑った。
ああなんてこと!

「鉢屋三郎が、色に、溺れた!しかも忍びのイロハも知らぬ、身元も定かではない女に惚れた!なんて滑稽な、なんて無様な、なんて愚かな!嗚呼坊や、名は雷蔵と言ったね。胸をお張り。おまえは間違っていない。繰り返してあげよう、おまえは、間違えてなど、いない。わたしが保証してあげる、おまえは正しい。見ず知らずの女を信じるのか!嗚呼、わたしも天女さまと似たようなものかも知れないけれどね、わたしは自分の身の上をきちんと明かしてあげられるよ。雷蔵、わたしの名を教えてあげようね。寂しくなったら呼べばいい、苦しくなったら呼べばいい。わたしはおまえが一等気に入った。わたしの名前は名前。おまえには特別に呼ぶことを許してあげよう」

その名は同じ顔をした親友が、姉と呼んでいた人と同じ名だったけれど。


真っ直ぐに呼ばれたぼくの名前が嬉しかったので、どうでもよいことなのです。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -