姫さまと呼ばれることが嫌だった。
頭を垂れ傅かれることが不快だった。
わたしに見えぬところでわたしを笑うくらいなら、面と向かって申せば良いのだといつも一人で不満を口にした。
それでも表面上は何事もなかったかのように笑う。結局わたしも他者と変わらぬ卑怯者だと知っている。





「名前姫さま」


そう呼ばれる姫君はたおやかな笑みを浮かべて世の中の悪意も失意も知らずに微笑みながら花を愛で和歌を詠み苦痛も悲痛も知らずに生きて死ぬ箱庭の主だ。

ご存知の通り、わたしの名である。

家臣である名字の家に生まれ、子を成すことが出来なかった主君の養女にと望まれた。ただの小娘だったわたしの人生に転機たるものが存在するとしたら、それはご主君たる養父に見初められたことに他ならない。

「名前姫さま、ご覧くださいませ。白梅が咲きまして御座います」
「ええそうね、とても良い香り。養母上さまにもお届けしたいのだけれど…、お邪魔ではないかしら」
「そのようなことは御座いませんよ。姫さまからの贈り物であれば何であろうとお喜びになられるに決まっております」
「そうかしら。では一番良い枝振りのものを養母上さまに届けましょう…誰か、手ぬぐいを持ってちょうだい」

わたしの声に応えて姿を現したのはわたし付きとして雇われている一人の忍びだった。わたしの許しがなければ頭も上げず、わたしの許しがなければ姿を見せることもない。上女中である妙がまるで汚らわしいものでも眺めるように忍びを睥睨していたが、それを咎めることは出来ない。なぜなら彼女は上女中であり、彼は末端の忍びだ。

そしてわたしはこの城の姫。

出自からして妙と忍びの間には越えられない壁が立ち塞がっているのだからわたしは余計なことを口にするべきではない。この城の中では珍しくもわたしを擁護してくれる代えの利かない大切な上女中である妙と、戦が始まる度に大半の顔触れが変わる戦忍の末端である忍び。選ぶべきは考えるまでもないことだった。
妙が忍びの手から引ったくった綺麗な手ぬぐいから汚れを落とすように幾度も叩き、そうして漸くそれはわたしの手へと渡った。感じるのは小さな罪悪感にも似た何か。けれど小さな迷いを振り払うようにわたしはそれを気にも止めない。

「妙、どの枝が良いかしら」
「そうで御座いますね…こちらなどは如何でしょうか」
「そうね、妙の目利きなら間違いもないでしょう。そうだわ、妙が養母上さまの寝所へ届けてくれないかしら」
「わ、わたくしがですか!?」
「そうよ。病に伏せっていらっしゃる養母上さまの寝所へそこらの忍びなど遣わすなんて出来ないわ。そんなことをしたらこの名前が常識知らずだと笑われてしまうもの。本当は名前が手ずからお渡ししたいのだけれど、感染ってはいけないからと養母上さまが未だお側へ上がることを許してくださらないの」
「御台さまは姫さまを慮っていらっしゃるのですよ」
「判ってはいるのだけれど。ねえ妙、養母上さまに名前は一日も早くお会い致したいのですとお伝えしてちょうだいね」
「勿論で御座います。一言一句間違いなくこの妙が御台さまへお伝え申し上げますのでご心配なさらないでくださいませ」
「頼みましたよ」

手ぬぐいを巻き付けて手折った梅の枝を届けてくれるよう念を押せば妙は承知したと笑いながら大切そうにそれを抱え、いそいそと庭を後にした。見送ったわたしは忍びに声を掛けることなくその脇を通り縁側へと腰を下ろす。勿論、双方に会話などない。ある筈がない。



スエヒロタケ城の名前姫は四年前に城へ入ったが、それ以前の三年間、彼女の経歴は杳として知れない。



縁側に腰掛ける美しい着物を纏った美しい女を男は眺めた。男が忍術学園を卒業したのは一年と少し前のことで、二度と会うことはないだろうと覚悟を決めた筈の女と再会したのは別離から三年と少しの時間を経た梅雨空の日のこと。あの日も女は美しい着物の裾を慣れたように捌き、長い睫毛を僅かに震わせて動揺を隠してみせた。

「…姫」

しとやかに微笑む妙齢の姫はどこへ嫁いでも上手くやって行くことが出来るだろう。老いた養父母の最後の望みは、養女である名前姫の花嫁姿を一目見ることだと誰もが知っている。

男もまたそれを知っている。

七年と少し前に出会い、六年前に恋を知り、五年と半分前に想いを告げ、五年と少し前に触れ、四年と少し前に潰え、一年と少し前に再会を果たした。
重ねられることのない想いは、昇華されることもなく男の胸で燻り続け三年。三年間で育まれ、三年間で孕んだそれは未だ男の内にある。

「名前…、名前…、ひめ…」

言葉を交わすことも叶わず、触れることも重ねることも、公には名を口にすることさえも許されない。それでもよかった。どちらにせよ男は色を知り命の軽さを知った己の手で女に触れることをしないと決めていた。男の大切な初恋は真綿に包まれ大事大事に懐の一番柔らかく温かな場所で愛でられている。それで十分だった。



(これは純愛ですか?)

(いいえこんなものはただの自己満足に過ぎません)



誰にも話したことはありませんでした。
これから先にも誰かに話すことなどないお話でした。墓石の下までも抱いて眠る決意を秘めたお話でした。
互いに吹聴することを好まなかったのでわたしの気持ちを知っていたのは彼だけだったでしょう。そうして彼の気持ちを知っていたのもわたしだけだったと自負しています。

だいすき。だれよりもだあいすき。いっとうすきよ。ねえ。すきだよ。だれにもやりたくないな。だいすき。すきっていって。すきよ。そつぎょうしたらいっしょになろう。うれしい。だあいすき。ずっといっしょにいたいね。ああ。だいすき。だいすき。だいすき。あのこよりも。あいつよりも。だいすき。

人生で一度きりの恋だと決めていました。砂埃と汗に塗れたあの頃こそが、わたしの人生で最も輝いていた時期なのです。桃色の装束を着て、誰に憚ることもなく泣き笑いそうして胸を高鳴らせ、わたしが生きていたあの頃が。

「…きれい」

だから二度と会うこともないと別れたのです。黄味掛かった明るい緑色の装束を着たあの頃の貴方に、今にして思えば随分と酷い言葉を投げ付けたような気がしています。

だから、これはきっと。

「…姫、余り風に当たられてはお風邪を召されます」
「構わないでちょうだい。我が身なれば忍び風情などより判っています。下がりなさい」
「……出過ぎたことを申しました」

罰が当たったのです。

泣くことも縋ることも連れて逃げておくれと頼むこともわたしには出来ない。わたしの身を案じる男はただの忍びで、わたしはこの城の姫。三年間の想い出なんて早々に打ち捨ててしまえば良かったのに、それも出来ず素知らぬ振りで澄まし顔。



(未だわたしの初恋に、さようならも言えない)





次の春、スエヒロタケ城の名前姫は不平も不満も後悔も悔恨も何もかもを飲み込んで、彼女を見初めた隣国の若き城主の元へ嫁いでゆきます。


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