広がる青空の下で | ナノ
生まれてから今まで、兄とは一度も離れたことなんてなかった。
あったとしても修学旅行や交流学校、それくらい。
まるで二人で一つかのように生きてきた私にとって、こんな兄との別れは初めての体験だった。




▽▲▽




陣内家の人々がいる居間を飛び出してどれくらい走っただろう。
走るのはあまり得意な方ではないので、私の息はみっともないくらいに上がっていた。
じっとりと汗ではりついてくるシャツがうっとおしい。
昨日お風呂に入っていないのでそれのせいもあってか、さらに体がべとついているように感じてしまう。
小さく肩で息をして、俯けたままだった視線を上げれば、そこには私と兄が寝ていた部屋がある。
無意識のうちにこの部屋まで戻ってきてしまったらしい。


「…兄さん」


小さく何度も兄を呼ぶ。
だけど、いつもは返ってくるはずの返事はない。
優しく笑う笑顔もない。
温かな手の温もりもない。

じわり、と視界が歪み透明な滴が頬を伝った。


「兄さん、兄さん…」


部屋の真ん中に座り込み、体を自身の手でぎゅっと抱きしめる。
次第に流れ落ちる滴は増えて、畳に黒い後をつけた。

いくらまっても、あの優しい声は聞こえてこない。
いくら待っても、少し困ったような柔らかな声が聞こえてこない。


「兄さんっ…」


私は一人なんだと、嫌な程に実感させられた。


「静夜」


不意に、小さな声が私を呼んだ。
歪みきった視界を数回擦ることで正常に戻し、声のした方を見ればそこにいたのは――。


「佳主馬君」


…池沢佳主馬だった。
彼は私の声に小さく笑い部屋へと入ってきた。
そしてそのまま、私の真正面にゆっくりと座り込む。


「いきなり飛び出していったから、少し気になって」
「…ごめん」
「…気にしなくていい。誰だって、身内が犯人扱いされたら多少はパニックになるよ」


僕だってそうだ、と佳主馬は小さく言った。
その言葉は彼なりの慰め、彼なりの心遣いなのだろう。
長い髪から微かに見える瞳は心配そうに揺れている。


「…一人には、慣れてるって思ってた」
「……。」
「でも、本当は私、一人じゃなかった。いつも兄さんが傍にいてくれたの」
「……。」
「なにもせず、なにも言わず、ただずっとそばに居てくれた」


私の意思関係なしに、私の閉じられていた口が言葉を紡ぐ。
どうしてこんな事を彼に話してしまっているのか、私自身もわからない。
でも、なぜか話をしたくなった。今まで、こんな話をしたのは親友の大地だけだったのに。


「…静夜」
「修学旅行や交流学校の時は、仕方がないって思えた。だって、それは決まった事だから。それに、その時は大地が兄さんの代わりに傍に居てくれたから…でも、今は大地も兄さんもいないから…。こんな時、どうしていいかわからない…っ」


いつも人に守られてきた私は、まったく成長しない雛鳥のようだ。
ただ守ってくれる人の名前を呼びながら恐怖におびえ、体を震わすだけ。

人がいるというのに、私の瞳からはとめどなく滴が流れ出す。
次第に水気を帯びてくる服。そんな事気にもせず私は涙を流し続けた。


「……。」
「わからないの…っ」


嗚咽が混じった声はみっともなく掠れてしまう。
そんな彼女を見て、佳主馬はただ内心うろたえる。
彼の脳裏にはただ、彼女を慰めたいという考えしか浮かばない。

どうすれば、彼女は泣きやんでくれるだろう。

会って間もない自分にはどうすることもできない。
でもなんとかしたいという気持ちが、彼の体を動かした。


「……っ」


ゆっくりと静夜へと伸ばされる細い腕。
少しばかりおびえるように、うろたえるようにゆっくりとゆっくりとその腕は彼女へと伸ばされ。


「…佳主馬、君?」
「……。」


佳主馬は、優しく静夜を抱きしめていた。
ポトリ、と大きな涙の一滴が静夜の頬から零れ落ち畳に新たな染みを作る。
部屋へと入ってきた夏のぬるい風が二人の髪をなびかせ、静夜の青い瞳が微かに見えた。
その瞳は驚いたように見開かれ、目の前の彼を見つめている。
多少強張った彼女の体。それを包み込むように佳主馬がゆっくりと手を彼女の頭へと回し、二人の体はさらに密着するような形となる。
トクン、トクンとお互いの鼓動が伝わりあう。
その心地よさに、温もりに、強張っていた静夜の体からは次第に力が抜けていく。

(温かい…)

兄以外に抱きしめてもらったのは静夜にとって初めての経験だった。
いつもならば拒絶するところなのだが、なぜか佳主馬に抱きしめてもらうことに嫌悪感を感じない。
むしろ、心地いい。ずっと、こうしてもらいたいくらいに…。

静夜はゆっくりと体から力を抜いてゆき、その体を佳主馬へと任せ、静かに瞳を閉じた。
今まで散々泣いていたからだろうか、心地よい眠気が彼女を眠りへと誘う。


「……兄さん」


そう最後に呟いて静夜は完全に眠りについた。


「…静夜?」


呼んでも返事をしなくなってしまった彼女。
腕の中から聞こえてくる規則正しい寝息に、寝ちゃったんだ、と小さく佳主馬は呟いた。
そして彼女の顔を隠している長い前髪をそっと撫でる。
そこから見えるのは心地よさそうな静夜の寝顔。
心から安心しきった顔で彼女はスヤスヤと眠っていた。

(僕は、なにをしているんだ)

彼女の寝顔を見つつ、今更ながら羞恥心が体中を駆け巡る。顔がこれでもかというほどに熱い。
自分でも何故こんな大胆な事をしたのか見当もつかない、気がついたときには自分は彼女を抱きしめていたのだ。

ただ静夜の泣き顔を見ているのが辛くて、苦しくて、見ていられなくて。
なんとか泣きやんでもらいたいと思った次の瞬間には体が自然と動いていた。
瞳を見開き自分の名前を呼んだ彼女がとても愛おしく感じて、更に彼女を抱きしめた。

今まで出会った女子にはこんな事、思ったことなかったのに。
こんなにも一人の女子に執着したことなどなかったのに。
そこまで考えてふと、佳主馬は顔を上げた。

(ああ、そうか…)

何を考え込んでいるんだ自分は。
そこまで考えることなどなかったではないか。

(…僕は――)

彼女が――静夜が好きなんだ。




簡単かつ明白な答え
(どうして気がつかなかったんだろう)
100830 執筆
160421 編集

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