暗くなった部屋にパタンと無機質な機械音が響く。今まで光を放っていたパソコンは機能を停止し、暗がりの中静夜の小柄な姿だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
▽▲▽
「……。」
ふぅ、と無意識のうちに零れ落ちた一つのため息。それは、今まで自分が背負っていた王者(チャンプ)と言う名の枷が外れた安心感からか、少しだけ感じる喪失感からなのか。決して手を抜いたわけではない。全力でぶつかり自分は彼に負けた。しかし、どこか気分はすっきりとしていた。その理由は彼女自身にもわからない。ただ今しっかりと自分の脳が認識しているのは。
(私はもう、女帝ではなくなったということ)
青い瞳をゆっくりと閉じ。その事実をしっかりと自身の脳に、体に、記憶に刻み付ける。
あの時の胸の高鳴り。王者と対峙したときの少しの緊張感と親近感。それらの感触を頭の中にしっかりと残す。忘れないために。忘れてしまわないために。
「静夜?」
「…兄さん」
控えめに開かれた障子から顔を出したのは兄だった。
閉じていた瞳を静かに開き。静夜は前髪を止めていたピンを外して部屋の中に入ってきた兄へと体を向ける。健二はそんな彼女に優しく微笑みかけ「晩御飯、持ってきたよ」と静かに言った。
(そうか、もうそんな時間になっていたんだ)
今までOZという電子世界に意識を向けていたせいで自分がお腹をすかせていたのすらも忘れていたらしい。
「これ、先輩の家の方が作ったんだ。とっても美味しいんだよ」
「ありがと、兄さん」
月の光だけが差し込む離れの部屋。その縁側に腰を下ろし私は兄が運んできてくれたイカの刺身や天ぷらなどの食事を口にする。どの料理も思わず口元が緩むほどに美味しかった。
それを兄に伝えれば、兄はまるで自分のことのように嬉しそうに瞳を細める。
暫く言葉を交わすことなく私は夕食を食べ続ける。そろそろ皿に盛られていた大半の料理がなくなるという時、隣で庭を眺めていた兄が静かに口を開いた。
「静夜、ゴメンね。静夜は人がいっぱいいるところ苦手なのに…僕のアルバイトの為に無理についてきてもらっちゃって」
「兄さん…」
実際のところ、女子学生を一人家に置いておくのが心配だからということで取った措置だったが、それでも彼の心には罪悪感があった。だんだんとか細く頼りなくなってゆく兄の声。その瞳は本当にすまなそうで…。私は持っていた食器を置き、自分より幾分か背が高い兄を抱きしめた。上から聞こえる息の飲む音。私は固まる兄の背中へと手を回しぎゅう、と抱きしめる。
「私は大丈夫。兄さんは、何も悪くない」
「静夜…」
「私は確かに人前に出たり、人が沢山いるところにいるのは苦手。だけど私がそこに行くことで、兄さんが喜んでくれるなら」
そう、兄が喜んでくれるなら。兄が笑ってくれるなら。兄が幸せだと感じてくれるなら。私は、どんなことでも我慢できるし、頑張れる。
「私は兄さんが大好きだから。兄さんのためなら何でも出来るよ」
「…っ」
だからそんな悲しそうな顔をしないでよ。
そう小さく呟いて兄の細いながらもしっかりとした体を抱きしめる。私の背中をうろうろしていた兄の手は、私の最後の言葉でゆっくりと背中に回された。
「静夜、ありがとう」
「……どういたしまして、兄さん」
優しく頭を撫でられる手のひらの心地よさ。間近で香る兄の香り。そして温もり。
いつも出張ばかりで家にいない両親からは与えてもらえなかったこの温もり。
それを私に小さい頃から与え続けてくれた兄。寂しい時、悲しい時、不安な時いつも私を支えてくれた兄。その優しい声に、温もりに、手のひらに、笑顔に何度私は救われたことだろうか。
寂しい時、孤独に押しつぶされそうな私の傍にずっといてくれた。
悲しい時、泣きじゃくる私を優しく抱きしめてくれた。
不安な時、縮こまる私に手を差し伸べてくれた。
どんなときも兄は私を守ってくれた。私を大切なたった一人の妹として精一杯の愛情を注いでくれた。
そんな兄だからこそ、私は心の底から兄を信頼し、尊敬できる。
大地よりも、佐久間先輩よりも、両親よりも、世界中の誰よりも。
「兄さん」
「なに?静夜」
抱きしめる力をそのままに、私はゆっくりと兄へと顔を向ける。優しげに微笑む兄、そんな兄へと私は小さく微笑みを浮かべた。
「大好き」
誰よりも、何よりも、大好きだよ兄さん。
私たち兄弟の固く結ばれた絆は、決して崩れたりはしない。
ブラザー・コンプレックス(僕も大好きだよ、静夜)
(だって君は、僕にとって大切で大切な何物にも変えられないたった一人の妹だもの)
100504 執筆
150627 編集
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