「ごほっ…げほっ…」
その日は息切れと咳がいつもよりもひどかった。
まるで熱湯をそのまま飲んだかのように熱い喉と胸。
呼吸法を忘れてしまったかのように乱れる呼吸。
歪む視界の中で必死に伸ばしたボタンを押せば、急ぎぎみの足音が聞こえてきた。
「ゴールド君、どうしまし――っ!…せ、先生!先生!!ゴールド君が!!」
金切り声のような悲鳴が遠ざかり、バタバタと五月蝿い足音が聞こえてくる。もう少し静かにしてくれと文句の一つでも言いたいところだけれど、それすら叶わぬ程に俺の意識は朦朧(もうろう)としていた。
「ゴールド君!しっかりするんだ、ゴールド君!!君、緊急事態だ!急いで緊急用の――」
軽く揺さぶられる肩、意識を保たせるためにかけているのだろう、耳元で聞こえてくる大声。…ああ、全てが五月蝿い。
「ごほっ…ごほごほっ…ゴフッ!!」
勢いよく咳きこめばボタッと何かが手にへばりつく感触。うっすらと重い瞳を開けば、手がペンキを零したかのように赤かった。
やたらヌラヌラと鈍く光るそれは…微かに鉄くさい。
(ああ、これは、俺の…血か)
すぐ近くでは医師の息をのむ音が聞こえ、俺の体には素早く何か機械のようなものが取り付けられてゆく。
もう意識も虚ろで医師や看護師が何を言っているのかさえ認識できない。揺れる視界、ぼやける意識、その中でさえも、俺は無意識のうちにいつも見つめている透き通った青色を探していた。
頭が痛い。喉が焼けるように熱い。体が言う事を聞かない。口中に鉄の味が広がって気持ち悪い。
(俺、死ぬのかな…)
何故だか、恐怖は感じなかった。
「ゴールド、しっかりしなさい!ゴールド!!」
「ゴールド!ねぇ、ゴールドしっかりして!!」
「おい!ゴールド!!聞こえているのか!?ゴールド、しっかりしろ!!」
突然医師や看護師の声を遮るように、耳元で鮮明に聞こえてきた聞きなれた声。恐らく看護師や医師が呼んだのであろう、それは、俺の母親、クリスタル、そしてシルバーの声だった。
どの声も今にも泣きだしそうで、きっとその原因は俺にあるんだろうと嫌でも理解できた。けれど、大丈夫だ、と伝えようにも、俺の体はもう俺の意志では動いてくれそうにない。体はまるで、石になってしまったかのように動かない。
「ゴールド!ゴールド!!嫌よ、死んじゃ駄目!!」
「おいゴールド!俺達を置いて勝手に死ぬなんて許さないぞ!起きろゴールド!!」
ゆるゆると瞳を閉じる俺の頬に温かい何かが落ちる。
きっとそれは…誰かの涙。
(ごめんな…二人とも)
なんだか、物凄く眠たいんだ…。
ごめん、と動かない唇を微かに動かし、無機質な機械が紡ぐ機械音を子守唄に…俺の意識はゆっくりと沈んで行った。
△ ▼ △
「ゴールド君」
「……ぅ、…」
「起きてください、ゴールド君」
優しい柔らかな声が聞こえる。それから俺の特徴的な前髪を撫ぜる感覚。とても心地いい。心地よさに手にすり寄れば、ぽんぽん、と脳の覚醒を催促するように軽く頭を叩かれた。
それによって覚醒してきた意識。さっきまで重かった瞼は今は軽き、ゆっくりと瞳を開けば目の前には彼女の顔があった。
「っ!うおわぁ!!」
「っ!?」
思わずのけぞれば、彼女も驚いたようにのけぞる。前にもこんなことがあったような気がする。デジャヴだろうか…。
慌てて体制を立て直し辺りを見渡すと、そこはまるで霧の中にいるように白く曇っており、言いかえれば雲の上のような場所だった。
「こ、こは…」
「“生と死の狭間”、と言えば、分りますか?」
「“狭間”?」
彼女はゆっくりと頷く。
そして俺から視線をそらし、ある一点を指さした。霧が微かに歪むそこ。引き寄せられるように歩み寄れば、その部分だけの霧がゆっくりと晴れてゆく。
「あれは…俺?」
見えたのは一つの病室。真っ白なベットに横たわっているのは紛れもない、点滴だらけになった俺自身。
瞳はきつく閉じられており、肌も唇も真っ白でまるで死人のよう。横では母親とクリスタル、そしてシルバーが必死に俺へと叫び続けている。
「俺は…死んだ、のか?」
「死んでませんよ、まだ」
「…まだ?」
いつの間に近寄ったのか、俺の隣で俺と同じように下の光景を見つめる彼女。俺へと必死に呼びかける彼等を見つめ、そして俺へと視線を移す。
その顔にはなんの表情も浮かんでいない。
「君は今、肉体と精神が離れている状態なんです。このままここに留(とど)まれば君はもうすぐ死ぬでしょう」
「…そっか」
「ですが」
彼女は、言葉を続ける。
「今、あの肉体へと戻れば、君は生き返ることができる」
「それ、本当か?」
「ええ、本当です」
俺を見つめる彼女の表情はない。無表情のまま、彼女は淡々と言葉を紡ぐ。まるで、初めて会ったあの時のように。
彼女の態度に少し引っかかりを感じながら、俺の胸の中は今、歓喜に満ちていた。
死ななくて済む。今、肉体へと返れば俺は生き返ることができるのだ。
「なぁ、それどうやったらできるんだ?できるんだったら早くやってくれよ!」
「……。」
「…“死神”?」
「忘れてませんか?ゴールド君」
「へ?…――…っ!?」
風が吹き、どさり、と俺は無様に尻もちをついて目の前へと迫るモノに瞳を見開いた。それは数日前、彼女が見せてくれた、柄も刃も真っ黒な死神の鎌――“デス・サイズ”。
はらはらと数本の髪が舞い、爆発した前髪が数p切れていた。目の前で静かにソレを俺へと向けている彼女はやはり無表情。
その姿はまさに、人の命を刈り取る冷酷な“死神”そのもの。
「私は――君の命を狩りに来た“死神”、なんですよ?」
なんの感情も籠っていない機械的な声。今まで聞いた事もない程の静かな声色に、背筋が凍った。
「生き返る術(すべ)を教えたとしても、それを行えるのは“死神”。私が君を生き返らそうと思わなければ、君は生き返ることはできません」
「そ…んな」
「それに、死ぬ予定の人間を見逃し、生き返すという事は私達の“掟”に反する事なんです。死ぬ者がいなければ生まれてくる者もいなくなります。この世のバランスが、とれなくなってしまうんです」
「そう、なのか…」
「ええ。ですから、私は君の首を跳ねて、君を殺さなければなりません」
数p、鎌を持ち上げピタリと止められたのは、俺の首筋。嫌な汗が背中を伝い、俺の呼吸は乱れ始める。
今まで、自分は死ぬんだと、もう何の後悔もないと、わり切ったはずだったのに。いざ死に直面したら身が縮こまる程の恐怖が己を襲ってきた。
(結局は、覚悟なんて出来てなかったんだ…)
どんなに自分が死ぬ事を悟られぬように笑えていても、どんなに仕方ないと思っていても、結局、最後に生きられるという甘い誘惑をかけられれば、それにすがりついてしまう。
結局人間はどんなに善良ぶっても最後は“生”にしがみついてしまう生き物なのだろう。
(最後の最後は潔く、カッコ良く、決めたかったんだけどな)
自重的な笑みが、こぼれた…。
「さぁ、どうしますか?この話を聞いても尚、君は“生きたい”と望みますか?それとも、潔(いさぎよ)く“死”を選びますか?」
「……、俺は」
どくん、どくん、とゆっくり心の像が脈打つ音が聞こえる。
後ろから聞こえてくるのは親友と母の叫び声。
目の前に迫るのは黒い刃。
生まれおちる“生命”を殺し、その十字架を一生背負いながら“生きる”か。
自分が“死ぬ”ことで、新たに生まれおちる“生命”を“生かす”か。
用意されるのは二つに一つ。正しい選択は――。
「俺は――…“死”を選ぶ」
きっぱりと言い放てば彼女の顔がピクリと動く。
「生まれてくる“生命”を殺してまで、俺は生きたくなんかない。そうなるくらいなら、俺は“死”を選ぶ。やりたかった事、やり残したことは、生まれてくるそいつに託す」
「……それが、君の答え、ですか?」
「、ああ」
「…いい、決断です」
なら、と彼女はゆっくりと鎌を下げる。
その鎌で切られるのかと思っていた俺、は思わず間抜けな声を出した。それを見た彼女は「君を試しただけですよ」と朗らかに言った。
冗談にしても、これはきつい…。
「本当に、いいんですよね?本当は生き返りたいとか、思わないんですか?」
「だーかーら、何度も言わせんな!俺は死ぬ!そんで、俺の夢とかやりたかった事は次の奴に託す!!悔いはねぇ!」
ふん、と胸を張れば彼女はそんな俺にキョトンとした瞳を向けた。でもポカンと開かれた口は次第に弧を描き、そして彼女はいつものように優しく笑う。
「では、ワカバタウンのゴールド君、此方へどうぞ」
「ああ」
差し出された手に手を重ねる。
不意に背中から聞こえてきた親友たちの声に少しばかり後ろ髪を引かれたが、それを首を振る事で振り払い彼女と一緒に歩き出す。でも、少し進んだ先で「ごめん、少し待ってくれ」と言って先ほどの霧の前まで向かった。
彼女もそれがわかっているのだろう。俺を引き留めようとは一切しなかった。
眼下に見えるのは愛しい母親と心の底から信頼していた唯一無二の親友。
「ごめん、かあさん。シルバー。クリスタル。俺、先にあっち、行ってるから。だーいじょうぶだって、ちゃんとお前らも待ってるからさ。俺にしては珍しく、ゆっくりのんびり待ってやるよ。だから、よ…っ…だから、」
――俺が死んでも、元気で。
「もう、いいですか?」
「ああ、悪ぃ。時間取らせたな」
「……いいんですか?」
「……。」
再度問いかける彼女。その言葉に思わず口を開きかけるが、ぐっと堪える。
もう決めたんだ。俺は、次の奴に俺の夢を託すって。今更こんなところでごねていられない。
「ああ、」
目尻を拭い、力強く頷けば、彼女は小さく頷き空を見上げた。
同時に天から自分に降り注ぐ眩い光。その光に解けてゆくように俺の体は薄らいでゆく。
眩しい、けれど、何故か危険なものだとは思えなかった。
次第に体を包む温かな、心地いい温もり。ドクン、ドクンと耳に聞こえてくる鼓動。言い表わすなら、まるで母親のお腹の中に居るような…。
「…あった、けぇな…」
「っ…ゴぉルドぉおおおお!」
友の声が、聞こえた気がした。
△ ▼ △
真っ白な室内で、機械が一際甲高い音を奏でる。それは、今まで生きてきた彼が今、遠くへと旅立ったと知らせる証拠。
「残念ですが…ご臨終です」
「嘘、よ…嘘だって言ってよ」
「っ…バカ、やろうがっ」
崩れ落ちるクリスタル。
彼が眠るベットを力の限り叩くシルバー。
そんな中、ゴールドの母親だけは冷静で、彼の冷たくなってしまった頬に触れただ一言。
「お疲れ様…ゆっくりと、おやすみなさい」
母性に満ち溢れた優しい声色でそう言った。
「うぐっ…ひっく…ふぅっ…う、うわぁあああああああ!うわあああああああああっ!!」
「っ…っ…ゴぉルドぉおおおおおおおおおおお!」
――親友の悲しげな叫びは果たして、彼に届いたのだろうか?
誰もが悲しみにくれる中、不意に吹いた一陣の風。それにふとゴールドの母親が視線を移す。
カーテンが揺れた一瞬、その窓枠に一人の見知らぬ少女が座っていた。その少女は、彼女と目が合うとゆっくりと頭を下げ、消えた。
温かな温もり(それは、誰のものだったのだろう)101204 執筆
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