春は出会いと別れの季節だと誰かが言っていた気がする。冬の間葉が落ちて寒そうな姿だった木々に葉が生い茂り始め、若葉の匂いがしてきた頃。いつものように仕事を終えて、自宅へと向かっていた私の前にそれは転がっていた。
黒く横長な物体。いや、物体と呼ぶのはとても失礼かもしれない。それは確かに人の形をしていたのだから。
テレビでよく事件にあった人を見つけた第一発見者の姿は見たことがあったが、私の人生では一度もそんな経験はない。むしろそんな経験を何度もするほうがレアだ。それだけでも自分の人生は他とは違うと自信を持っていいと思う。
そこまで考え、目前の光景から逃避するように空へと向けていた視線をその人の形へと向ける。私がぼんやりと思考を巡らせていた間も、それはぴくりも動かず静かにその場に横たわっていた。これはもう「病院に運ばれましたが死亡が確認されました」というテンプレ文章が流れる形では、と思いつつも放っておくことはできないのでおそるおそる手を伸ばす。
「あの…大丈夫ですか?」
数度肩を揺さぶって見るが反応はない。再度ゆすって見るが尚も反応はない。
これはもうだめか、と思い携帯へと指を滑らせた時だった。さっきまでなんの反応もなかったその人がもぞりと動きを見せた。それを見て再度揺らしてみると、小さいながらもその人が言葉を発した。
「…お腹……すいた……」
漫画の中だけでしか見たことがない、空腹による行き倒れ、それに私は人生で初めて出会った瞬間だった。
▽▲▽
成人済と思われる人物を担ぎ上げ、自分の家まで向かうのは地味に大変で、数度その人を壁に軽くぶつけてしまったのは仕方ないことだと思う。こちらも成人はしているが、そもそも男と女では筋肉の付き方が違う。女性でも武道をたしなんでいればなんてことないだろうが、私は少しかじった程度で終わっているので筋力に自信はないのだ。
それでもなんとか自室へと運び込み、布団へと寝かすことに成功した私は、ふう、と大きく息を吐いた。
「やっぱり体なまってるなー」
一か月に数度ジムには通っているがそんなにガンガン鍛えているわけではないので体力の消費は激しい。水でも飲もうかと腰を上げると、足元から、にゃぁ、と声が上がる。
「ごめん、すっかり忘れてた。ただいまー」
そこにいたのは一匹の黒猫。一人で過ごす空間をなんとか埋めたくて買ってきたその子はうちに住みはじめた年月はまだ短い。それでも、もともと人に慣れやすい性格だったらしく、毎日帰宅した私を迎えてくれていた。くすぐるように喉元を撫でてやれば上機嫌にぐるぐると喉を鳴らしてくれる姿に一日の疲れが溶けていく。自分の水分補給とその子のエサの準備もかねて台所へ足を向けてっきりいつものようにくっついてくるのかと猫の姿を探せば、今日は突然の来訪者の方に興味が強かったらしい。水とエサをもってリビングに戻ると、未だに動きを見せないその人の背に乗っていた。
「こら、人に乗っちゃダメだよ。降りなさい」
にゃーん、と間延びした返事をしつつ言うとおりにおりるこの猫はとても賢い子だ。頭を撫でてエサを出してやれば嬉し気に食べ始める姿がとても可愛らしい。
一通り猫と戯れて改めて布団で寝ている人へ視線を向けるが、未だにその瞳は開かれていなかった。これはごはん作るまで起きなさそうだと結論を出して、今日の夕飯は何にしようかと私は再度足を台所へ向けた。
▽▲▽
湯気の上がる夕飯を机に並べているときに閉じられていた瞳が開かれた。やはりおいしそうな匂いには起きるよね、と思いながらその人を見る。開かれたとは言ったが、半分までしかその瞳は開かれていない。ぼさぼさの髪を軽くかきながら不思議そうに周りを見回すその人へ「おはようございます」と声をかければ、彼はびくっと体を震わせた。
「え、と…おはよう、ございます」
顔を俯かせぼそぼそと零された返事に、自分も昔はこんな雰囲気だったことあったと軽く昔に意識を飛ばす。一度自分がなったことがある状態であるため、こういう時どういう対応をしてほしいかは少しだけ分かる。あまり突っ込んだことは聞かずに、会話も少なめに。返事はその人のペースで待てばいい。
「道端で倒れているあなたを見つけたので、勝手ですが私の部屋に運びました。お水飲みますか?」
「…飲む」
差し出した水の入ったコップが受け取られるのを確認して、作った夕飯を彼の前に出す。
「よければどうぞ。ほとんどあまりものですけど」
箸を置けば少しだけ不審がる瞳が私と食事を交互に見る。それもそうだ、目を覚ましたら知らない場所にいて、出された食事を不審に思うのは当たり前の事だ。
「ねぇ…」
「はい」
「なんで俺なんかを部屋にいれたの?こんなクズ倒れていても放っておけばいいじゃん」
なるほど、彼は自分を卑下するタイプらしい。冷めてしまったらもったいないので食べ始めた夕飯を食べながらじっと彼を見れば、その視線に耐えられなかったのかふいっと顔をそらされてしまった。さて、どう返そうかと考えながらまた夕飯を一口口に運ぶ。
「まぁ…気分、ですかね?」
「気分?そんなので見知らぬ他人を部屋に上げるの?あんた、頭大丈夫?」
「んー、多分全然ダメだと思います。仕事で脳細胞ほとんど死滅してますから」
食べていた食事を飲み込んで、はは、と笑えば変なものを見る目で見られた。しかし、実際に私の頭は限界まで来ているのは確かだ。自覚できるくらいには疲れている。その証拠に、今日もやらかしたミスの後始末で机に突っ伏していた。でも、だからこそかもしれない。失敗して、気分が落ちて、誰かにその気持ちを吐き出したくて…。
「私が、誰かと話がしたかった。だからあなたを部屋にいれたんだと思います」
「俺と話?」
「はい、私の仕事にはつながっていない誰かと話がしたかったんです。だから、倒れている貴方を部屋に上げました」
結局は自分の自己満足のために彼を助けたに過ぎない。水を飲んで一息つき、再度彼へと視線を向ければなんとも言い難い顔をしていた。まぁ、いきなりそんなこと言われればそうなるかと私の顔にも苦笑いが浮かぶ。
「あんた、俺と同じくらい変な奴」
「はは、そうかもしれないですね」
でも、と続ける言葉を紡いで一度口を紡ぐ。気づけば私も彼と同じように俯き加減で話していて、せっかく仕事のためになおしたんだけどと思ったりもしたが、此処は自分の部屋なんだしいいだろうとその考えは頭の隅に押し込んだ。
「そろそろ話さないと、ため込み切れずに爆発しそうだったんで…」
こんな自分勝手な考えで彼を巻き込んでしまったことが今さら申し訳なくなってきた。そんな時、にゃおん、という鳴き声がこの重くなり始めた空気を壊した。そっと顔を上げれば、彼の膝で彼の手に甘える猫の姿がある。彼も随分と猫の扱いには慣れているらしく、的確に猫が喜ぶ場所を撫でていた。
「いいんじゃない、爆発すれば。一度してきなよ…」
「いや、流石にそれは…」
視線は猫へ向けられたまま、呟かれて出された提案。確かに爆発させれば周りも私の心情に多少は気が付いてくれるだろう。けれど、その後のやりとりが気まずくなるのは目に見えている。俯く私を見て、どこか眠そうな瞳をした彼は「あんた、面倒な性格してるね…」と呟いた。その言葉に返す言葉などなく、うっと唸る。
「世間の目とか周りの目とか色々気にして、神経すり減らして、ドM?」
「いや、そうではないと…思いたいです」
確かに今までの会話をまとめればそういう性癖があるかもしれないとう可能性は否定できない。私の周りの人はもっと自分の意見はきちんと言う。それに比べて、否定的な言葉は飲み込んでしまう私は、自分の首を絞める行為しかしていないのだから。
「そういう貴方は、どうしてるんですか?」
「俺はそういうの無理だから近づいてない」
「もしかして、無職なんですか?」
「そう。軽蔑した?」
「え、いや、そんなことは…」
どこか吐き捨てるように紡がれる言葉にどう答えていいかわからずについどもってしまう。働いているものと働いていないもの。どの場所にいるかは人それぞれだし、もしかしたら彼は今丁度仕事を探しているかもしれない。そう考えると迂闊な返答はできずに、私はただ口をぱくぱくと開閉して、結局何も音にすることなく閉じた。そんな私を見て、彼はへっと自嘲気味た笑みを浮かべる。
「別に本音言ってくれてもいいんだよ?こんなクズでなんの役に立たないヤツになんて気を使わなくていいし」
「別にそういうわけでは…それに、なんの役に立たないなんてことはないです。今こうやって、私の話を聞いてくれてますし」
「話の流れでだよ。進んでじゃない」
「それでも、私にとってはとても、助かってます」
そう言えば彼はびっくりした目で見る。そして、どこか視線をうろつかせて居心地悪そうに頬をかいた。きっとそれは彼なりの照れ隠し的なものなんだろう、それに思わず口元が緩む。
「あんた、やっぱり変な奴だ」
でも、と彼は小さく呟いた後、一度口を閉じる。そして少しの間悩むように視線を彷徨わせ、少しだけ視線をそらして言った。
「…悪い気は、しない」
もごもごと聞きとりずらい言葉だったけれど確かに私の耳に届いた声に、思わず顔の表情筋が緩む。「なら」とぽろりと口から零れ落ちてしまった言葉。しかし、その続きは周りから見ても図々しいお願いだったので、言うか言わないか迷ってしまう。どうしようかとちらりと彼を見れば、じとりとした目が私へと向けられていた。まるで、続けていい、というようなその視線に意を決して口を開く。
「また、気が向いたらその変な奴の話相手になってくれませんか?」
言いきった後に、なんて自分勝手な申し出をしたんだと自己嫌悪に陥る。しかし言ってしまった以上、今さら「なーんて嘘ですよー」と言ってなしにする勇気もなく、ただただ彼の返事をまって無音の空間に耐えるしかなかった。
どれくらいの間無言の時間が続いたんだろうか。きっと1、2分ほどしかたっていないのだろうが、私にとってはとても長く感じた時間。その時間は、彼の言葉によって終わった。
「別に、俺も忙しいってわけじゃないから…たまにならいいよ」
猫も触れるしね、と自分の手にじゃれつく猫を撫でながら、彼はぼそりと呟いた。まさか良い返事がもらえるとは思っていなかったので、私は思わず黙ってしまう。その態度が気に障ったのか「こんなクズを家にいれたくないならいいけど」と続けられた言葉。
「あ、いや、まさかいいって言ってもらえるとは思っていなかったので驚いただけです。嫌とかじゃないです!」
否定するように慌てて答えれば、彼はじーっと私を見つめ、少しだけ口角をあげて言った。
「ほんと、あんたは変な奴だね」
春に松野家四男と出会う180225 執筆
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